2002年10月13日

「舟を出て」マタイによる福音書14:22〜33

 最近、私がつくづく思うことは、自分は神さまになれなくて良かったということです。日本の宗教の中には人間が神様になったり仏様になったりするものが多くあります。人が死ねば神となり、仏となるということです。しかし、神様になるということは大変なことだと思うのです。一つひとつの出来事に責任が問われますし、下界のこの世に生きる人たちのことを四六時中守ってあげなければなりません。疲れるでしょうし、神様をやっていくことは大変な事です。聖書よれば、人は死んでも神になれません。神と人とはまったく違う存在だからです。むろん、主イエス・キリストの福音を信じた者は神の子と呼ばれるようになりますが、それは、神に代わる存在となることではなく、神との正しい関係を回復することを意味します。私たち人間は神にならなくても良いし、この世の理解を超えた出来事の責任をとる必要もないのです。何という安心、恵みでしょうか。

 今日の聖書の箇所はペテロたちがイエスさまに命ぜられて湖を舟で渡る時に起きた奇跡の出来事を記録した箇所です。湖の向こう岸に向かっていた舟は逆風にさいなまれ、進みあぐね、夜が明けようとしていました。そこにイエスさまが水の上を歩いて来られたのです。何という不思議な出来事でしょう。「聖書の中にこのような奇跡の出来事が記録されているからイエスのことを信じたい人も信じられないのだ」と言った人もいるくらい、奇跡は信仰のさまたげとなっているのかもしれません。さて、ペテロたちは最初、イエスさまのことを幽霊だと思いました。当然です。水の上を歩いて渡れる人などいないからです。しかし、確かにイエスさまだと分かるとペテロは大胆にも「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい。」と言いました。そして、イエスさまの招きによってペテロは舟を出て歩き出したのです。しかし、急に強い風に気付き我に返って怖くなり、水に沈みそうになってしまいました。

 この出来事を通して、私はつくづく人間の信仰の限界を思わされるのです。どんなに強い信仰を持っていたとしても、信仰が自分自身を出所としているならそれはもろいものだと思うのです。そうではなく、信仰生活とは、イエス・キリストを出所とし、神を起源とすることなのです。だからこそ、信仰とは溺れないで(失敗しないで)歩むことではなく、たとえ溺れても助けることのできるイエスさまに寄りすがって歩むことなのです。

 ペテロの迷い、信仰の疑いは、彼自身を溺れさせます。しかし、彼は叫んだのです。「主よ、助けて下さい。」と力あるイエスさまに寄りすがり求めたのです。奇跡は神さまを信じる妨げとはなりません。むしろ、主イエスの復活という最大の奇跡があるからこそそれを信じる信仰が生まれるのです。理屈ではなく、本当に自分自身の魂の救いを、救われたいと言う切なる願いを神さまは求めておられるのです。「救われようが、救われまいが、どっちでもいい」ではなく、私たちの魂を誰よりも慈しみ、救いたいと切望しておられる神ご自身が力強い御手を延べて私たちがその腕を捕らえることを求めてくださっているのです。ヘブル書の著者は言います。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」(3:15)ペテロは信仰の弱さのゆえに主の助けを得たのです。それは、信仰が私たち自身からではなく、力ある神を出所としていることを私たちが知るためであったと私は思うのです。