2002年10月6日

「神の憩いの場」使徒言行録7:44〜48

 教会のお隣のアパートが地主さんの都合で売りに出され、今建物が解体されています。幸いにも住んでおられた皆さんはそれぞれに無事新しい住居に移ることができたようです。猫のミントやパセリ、中野君たちも引っ越して行きました。解体作業を見ていてつくづく思ったのは、新しい家を建てるためには古い建物は完全に解体撤去しなければならないのだということと、建築には多くの時間がかかり手間がかかるのに、壊すのは簡単だということでした。私たちの信仰も同じ事が言えると思います。神の愛を知り、福音を信じてクリスチャンとなったのに、私たちは中々その生活、人生を新しく作り直していくことができません。神を信じていると言いながら、ずっと自分の価値観や方法、古い癖や習慣を解体し、新しい基準に生きることができないでいます。また、どんなに信仰深く歩んでいても、いつでもどの瞬間でも不信仰に陥るのは簡単なことなのだとつくづく思わされます。実に目に見えないからこそ、私たちに与えられた信仰の恵みを恵みとして生きることは難しいのだと思います。

 さて、今日の聖書の箇所はおそらくキリスト教の歴史の中で最初の殉教者となったステパノの言葉です。彼は、イエス・キリストが神より賜った救い主であることを彼らの信仰の歴史を紐解いて語り始めます。そして、彼は救い主の到来を予告した預言者たちをことごとく迫害し、主に従うのではなく、自己中心的な信仰に生き続けたイスラエルとその指導者たちの不信仰を明らかにし、彼らの怒りを買って殺されてしまいます。ステパノは、神ご自身が憩われる場としてイスラエルの民、ユダヤ人を選ばれたことを教えようとしました。しかし、実際には神が憩われるどころか悲しみ、苦しみ、そして怒りを生み出してしまう民と彼らは成り果てていたのです。ステパノは言います。「わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。」幕屋とは、モーセに与えられた十戒の石版を納めた契約の箱を守る移動用のテントのことです。それは、モーセにより神が示され、神の言葉通りに造られたものでした。そして、そのテントは約束の地に落ち着いた後、ダビデ、ソロモンの手により神殿として造り変えられました。当時最大規模と言われた神殿は、しかし、神の言葉によるものではありませんでした。人間の知恵と力によって建てられたものだったのです。幕屋を造る時神は民に言われました。「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。私は彼らの中に住むであろう。(出エジプト25:8)」と。ステパノは神の心をイザヤ書を通して証しました。「『主は言われる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか。」(使徒7:49,50)

 私たちは自分の人生を、はたまた信仰を、自分の力で建て上げようと頑張ります。しかし、神は私たちの力で造り上げた所に憩いを求めておられるのではないのです。神の憩いの場とは、神が共にいてくださる場、私たち一人ひとりの心であり、信じる者たちが集まる教会という場です。そこは、「人の手」すなわち、人間の力、知恵方法、手段によって造られるのではなく信仰と祈りによる一致により、正しさの追求ではなく愛することの追求、裁き合いではなく赦し合いによって造られる場なのです。ジョージ・ミューラーという人が言っています。「人間の力でできる領域では、信仰が働く余地がありません。人間的に可能なことの中には神さまの栄光は輝きません。人間の力が尽きたところから、信仰が働き始めます。」

 私たち一人ひとりと共にいてくださろうとしている神さまが憩ってくださる場となるために神さまが求めておられるのは、私たちがまず神に憩う者、神に信頼し、神と共に生きる者となることなのです。