2002年9月29日

「視線を上げて」イザヤ書 51:4〜8

最近読んだ2冊の本:「『ひきこもり』だった僕から」(上山和樹)と、「馬と話す男」(モンティ・ロバーツ)。 ひきこもりと馬の話、一見関係がないように思えますが、人間の傲慢さに改めて気づかされた本です。

 上山さんの冒頭の言葉:「僕は、自分の意志でこの世に生まれてきたのではない。気がついたら、『ここにいた』。『与えられた自分』を『自分で選び取った自分』に転化させようとして失敗し、途方に暮れてしまったのが、あの状態だった・・・。」「あの状態」は、塾や学校でトップ成績を取るために過度な努力を続けていた中学2年にその兆候が始まります。:「焦りと恐怖から、冷や汗ばかりが流れつづける。動悸、息切れ、めまい、下痢。何をどう努力したらいいかさっぱりわからない」。そして、なんとか中学を卒業したものの、高校通学初日に先生からの暴力的な叱咤に傷つき、ひきこもりが始まり中退します。大学に進学後もひきこもりは続きます。その頃の心の叫び:「『底がない』『基盤がない』恐怖。僕だけは、どこかで手足がはみ出てしまっている。破綻してしまっている。そのことへの、恐怖、はずかしさ、罪悪感。」

 上山さんの鋭い感性は、私たちが日常の忙しさの中で、見過ごしている自分の罪を真正面からとらえ、考え抜きます。そのエネルギーはすさまじいものであり、それによって疲れ、ますます自分の殻に閉じこもってしまいます。社会との接点に触れるチャンスも得ますが、挫折してしまいます:「僕はお金が本当にこわい。それは<社会>そのものだった。『どんなにつらくとも、乗り切れ』これはしんどすぎる。」

 しかし転機が来ます。たまたま参加した、ひきこもりの親の会で発言する機会が与えられ、自分の闇の部分を社会に接続することになるのです。その発言:「ひきこもりというのは、何よりもまず<問い>なんです。『仕事をしなければならない』とか『学校へ行かなければならない』というのは、非常に安易に提出された<答え>です。そういう<答え>を無条件に突きつけるのではなく、どうか<問い>を共有してください。」

 そして、ひきこもりの問題に取り組む中で上山さんは訴えます。「ひきこもりというのは、核心的には『コミュニケーションへの絶望』です。『甘えてる』と言っている人には、ひきこもりのかかえる強烈な痛みをともなったジレンマが、全くみえていません。ひきこもりの状態にあるとき、いつも過去に目が向くということなのです。それも『過去への恨み』へです。現在に絶望しているが故に、『犯人探し』や『過去に固執する』のです。」

 しかし現在の上山さんは、「次につながる」光をつかんでいることを感じ、そのような過去へのこだわりがなくなってきたと言います。人と人の間のコミュニケーションは、議論ではなく、共感と気づきを研ぎ澄まし、自分メッセージを率直につなぎ合わせていくことだと思います。エレミヤ書(9:22〜23)が語ります。「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。/むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。」

 また、もう1冊の本:「馬と話す男」も同じ思いに至ります。モンティ・ロバーツはロデオ競技場に生まれます。父親は馬を仕込むために、ロープや鉄鎖で打ち据えますが、彼にはそれが、冷酷非情に見えてなりません。やがて、モンティは馬語を収得し、馬と心を通わせることで、鞭もロープも使わずに調教を行なうことに成功します。彼は著書の冒頭で言います。「本書をささげる相手として、『おびえる動物』である馬たち以外の存在を、わたしは思いつかない。われわれ人間は、何千年ものあいだ、無理解による虐待を強いてきたことを、馬たちに謝るべきだろう。わたしは馬に学び、馬を友とし、馬に支えられていた。」

 人と人は、見上げるのでも見下げるのでもなく水平な視線が必要ではないでしょうか。人間の傲慢さに気づき、絶対的な真理である神によりたのみ、まっすぐに語りあうことができればどんなにすばらしいことでしょう。しかし人間は弱く傷つき易い。相手から圧カを感じ支えが必要な時も、相手を見下して高揚している時もあるでしょう。そんな時、少し視線を上げたらどうでしょうか。いつもそばにおられるイエス様により頼むように。

 イザヤ書(51:6)で「天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。」と約束されています。私たちのゆるぎない基盤(つまり「次につながる」光)をいつも感じ、視線を上げて、イエス様に耳をそばだてるなら、兄弟姉妹と豊かに語り合うことができるでしょう。