2002年9月22日

「この私に」マタイによる福音書11:25〜30 

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』」

 「そのとき」イエスさまは言われました。そのときとは、イエスさまが救いの言葉を語り、イエスが神の子であることを証しする奇跡の業をなされたにもかかわらず、悔い改めてイエスさまを信じることがなかった町々をお叱りになったときの事です。イエスさまはそこでそれらの町を呪うことも滅ぼすこともできる方であったにもかかわらず、次の瞬間、天地の主である神をほめたたえられたのです。旧約聖書の大洪水の出来事は、まさに神の怒りが罪なる人間に下るという象徴的な出来事でした。しかし、信仰の人ノアに対し、神は二度と人に対し呪うことはしないと誓われたのです。そのしるしとして、神は大空に虹を与えられたのです。虹は、そんな神の誓いであり、後の世に与えられる救いの約束の前ぶれでもありました。それが、救い主イエスの到来でした。主イエスは父なる神の全権を受け、しかも、神と人との間に横たわる深い溝、すなわち「人の全ての罪」を受け、十字架に死に、永遠の命を信じる者たちにもたらしてくださいました。イエスさまこそ神の呪いを解く約束の虹、神と人とを繋ぐ虹だったのです。使徒パウロは、そんなイエスさまの十字架による救いの福音を「神の力、神の知恵」と呼びます(1コリント1:18)。神は福音宣教という一見愚かな人間的手段に「救い」を託し、虹とされたのです。

 人はその一生を疲れと苦労なしに生きることはできません。そんな苦しみや問題のただ中を歩み続ける私たちに主なる神は「苦労なしの人生」を与えようとされるのではなく、共に歩み、休ませ、新しい新鮮な命の力を与えてくださろうとしているのです。「疲れた者、重荷を負う者」とは別の意味では、イエス・キリストがその父なる神さまから全てのことを任され十字架に向かわれたように、主イエスを救い主と信じ、福音を託されて生きている一人ひとりと言うこともできます。福音を伝えることの重荷と苦労を誰よりもイエスさまは知っていて慰めと休みを与えてくださいます。「この私に」人生の意味と目的を与えてくださる主は、同時にその任務にあえぐ私たちと共にいてくださり、ご自身苦しまれたからこそ、私たちの魂に休みを与え労ってくださろうとしているのです。自分の重荷を置いて休める場所、それは十字架を背負ってくださったキリスト・イエスがおられる所、そこは同時に新しい力を得て立ち上がり、思い通りにはいかない現実に立ち向かっていく出発の場所でもあります。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)」