2002年9月1日

「魂の健康診断」マタイよる福音書 9章9〜13節

 先週、妻と私は休暇をいただき山中湖に行ってきました。久しぶりに心と体とを休める機会をいただき、日がな一日を「何もしない」ということに使ってきました。湖畔にてシートを敷いて座り、おにぎりを食べ、ボーっと水を走るボートを見たり、湖のはるか上空から急降下して魚を獲る鳶などを眺めてのんびり過ごしました。あいにくの雲り日ばかりでほとんど富士山は見えませんでしたが、素晴らしい景色と空気とがまるで自分ひとりのために神さまが今日の自分のために用意してくださったかに思えました。空に浮かぶ雲の水蒸気の一滴にも満たない私という存在のために神は休息のために場所を与えてくださいました。私はそのとき、あるジャーナリストの言葉を思い出していました。「私はこれまでイエスのために時間を使うことは知っていた。しかし、イエスととともに時を過ごすこと、イエスのそばにいるということを知らなかった。」

 とかく、忙しく働くことに価値を置き、休みなく働くことが善であると躾けられてきている私たちは、無意識に休むことに後ろめたさを感じることがあります。私も牧師になってからずっと神のために働くことが最善のことと思いながら歩んできました。しかし、ここに来て肉体的な疲れを覚え、頑張ろうとしても頑張れない自分と出会いました。先週、久しぶりの人間ドックでの検診で体のいたるところに不具合が見つかり、手当てが必要なことがわかりました。それは、私にとって不都合なことではなく、自分自身の人生の方向を修正するために与えられた神さまの導きだと思います。そして、検査を受けて導き出された結果は、私の体の中にある癒されなければならない病気を表していました。体に走る痛みと、疲労感とは、目に見えない私の体の異常を訴え、手当てが必要であることを教えてくれていたのです。

 ファリサイ派の人々は、イエスさまが徴税人や罪人たちと食事を共にしておられるのを見てイエスの弟子達に問いました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。すると、なぜかイエスさまは弟子たちに代わって答えられたのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたし(神)が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」。私たち人間は霊的な健康について無頓着です。「自分は罪人ではないし、とりたてて悪いことはしていない。世の中にはひどいことをする人がいるけれど自分はそんな人とは関係ない。」などと、倫理や道徳に照らし合わせて自分は健康と自負していることがあります。しかし、私たちの罪のために十字架に架かられたイエスさまの愛の福音という光、霊的レントゲンの光に照らされる私たちには一人残らず自分中心で神さまを認めない「罪」という病気があることを知らされるのです。私の悪い口癖は「大丈夫」という言葉です。家族が私の体のことを気遣ってくれても「大丈夫」といって大丈夫ではないのに頑張ってしまうこと、これも罪だと知らされます。病人であることを認める人にはイエスという名医が主治医となって下さいます。私も自分の弱さを素直に認める信仰を持ちたいです。