2002年8月25日

「四人の男たちの信仰」マルコによる福音書 2:1〜12

 イエスがある家で御言葉を語っておられることを知って、4人の男たちは中風で手足が麻痺し動けない人を癒してもらいたいと思い、担架のようなもので運んできました。家に着いたときは、玄関口まで人であふれ中に入ることはできませんでした。しかし、4人の男たちはあきらめず、必死に考えたあげく、無謀にも屋根に上り屋根をはがして、主イエスの前に病人を床ごとつり降ろしたのです。男たちの行動は非常識でしたが、イエスさまは咎めませんでした。「イエスはその人たちの信仰を見て・・・」と書いてあります。中風の人を憐れに思って癒されたのではありません。この中風の人を何とか治してもらいたい、イエスさまにお願いすれば何とかなる。このひたむきな信仰を見て、イエスさまは中風の人の病を癒されました。

 私たちは、自分自身が救われるためには自分自身に信仰がなくてはならないと考えています。しかしこの中風の人は、自分で「私はイエスさまを信じます」といって救われたのではありません。中風の人を4人の男たちの信仰が救ったのです。病気が癒されただけでなく、この人の魂まで救われたのです。この中風の人は「あなたの罪は赦される」という言葉を聞いたとき、神さまの前に罪深いものであることがわかったのだと思います。私たちは、救われるためには教会に来て礼拝を守らなくてはいけないと考えます。それでは、教会に自分で来ることができない人、知的障害等で説教を理解できない人たちは救われないのでしょうか。4人の男たちはそうは考えませんでした。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。(使徒16:31)」とパウロは言います。主イエスを信じ、愛するもののために祈れば、どんな障害を持っていようと、どんな病を持っていようと、イエスさまはその人を愛し、魂の救いを与えてくださいます。

 先日小田牧師は、熊本の病床のお父様を訪ね、主イエスの救いを語られ、病床洗礼を授けられました。また、世田谷のOさんというご老人を訪問し、やはり病床洗礼をされています。また第一礼拝に来ておられるAさんの病床のお母様の希望に応え、出向いて聖書の話をされる予定です。本当にすばらしい働きをされています。中風の人のように本人が来ることができなければ、その人を運んでつれてくる。また、教会に来られなくても病気の方のところへこちらから出向くことができるのです。私は、本当の教会の姿はこのようなものではないかと思います。教会は、各々自分自身の救いのためだけでなく自分の隣り人(家族、友人、会社の同僚など)の救いのために祈ることがなされていくところではないでしょうか。そして、共に祈りあうことによって神さまはその隣り人の魂の救いをも、もたらして下さる。そしてその隣り人の救いの経験を通して自分自身にも恵が与えられるのです。「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」(第1コリント9:23)とあります。

 私の祖父は、十数年前に亡くなりましたが、亡くなる数年前、既にクリスチャンだった私に「一郎、どの宗教を信じていても天国に行けるのかね」と質問したことがありました。その時私は、あやふやに「行けるんじゃないの」などと答えてそのままだったと思います。当時まだ元気だった祖父も齢を重ねるに従い、死は切実なものだったと思います。その祖父に対して何も答えられなかったことがずっと私の心に残っています。その祖父に対して、今なら「この世のすべてを創造されたイエスキリストの父なる神を、唯一の神と信じることだよ。そして神さまは私たちの罪のためにひとり子を十字架につけて、私たちの罪を赦してくださった。それによって私たちは生かされていることを信じることだよ。それが永遠の命であり天国なんだよ」と言いたかったと思っています。当時、祖父のために祈ることもしませんでしたので、なおさら、他者のために確信をもって祈る、そうすれば肉体的な癒しだけでなく魂までも救われることを示された本日の聖書の個所が胸に迫ってきます。

 今、青葉教会は新しい教会堂が与えられるようにと祈っていますが、そこで何が行われるのかが大切です。教会に集う私たちのことだけでなく、教会をまだ知らない隣り人のことを、確信を持って共に祈る中で魂の救いを経験し、そのことによってわたしたちも豊かな恵にあずかることができるのだと思います。