2002年8月18日

「ここに水があります」使徒言行録8:26〜40

 昨日、私はOさん(77歳)という方の洗礼式を行うべくご自宅を訪ねました。さまざまな事情があり、面接を重ね、その信仰を確認し、ご自宅ですが病床での洗礼式となりました。奥様はまだクリスチャンではありませんが、ご主人の洗礼を通して真剣に救いを求める心が与えられてきたそうです。事の発端は、Oさんの息子さんがクリスチャンとなられ、息子さんとその家族が劇的に変えられたことに不思議を感じられたことでした。Oさんご自身も一昨年来大病を患い、自分の命について考える中、息子さんやお孫さんたちの熱心な祈りの中で信仰の決心へと導かれていかれたのです。

 私は、今まで信仰と救いについて、「自分の口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」とローマ書でパウロが言うように、信仰告白があればその救いは達成されているのだと信じ、洗礼はそれほど重要なことではないと思っていました。しかし、先日、私自身の父がイエスさまにある救いを受け入れ、自分の罪を告白し、病床洗礼を私から受けてくれたこと体験し、洗礼の豊かな恵みと約束について先例が決して形だけのものではないことを思い知りました。実に洗礼は私たちの信仰の告白を伴って、心の救いをもたらしてくれるのだと言うことを身をもって再確認させていただいたのです。Oさんも私の父も、高齢であることと病床にあるという弱さの中で、最も大切な神の赦しと守りと平安とを勝ち取ったのです。

 ピリポが主の使いの言葉により不本意な場所、ガザに下ろうとしているとエチオピヤ人の宦官に出会います。彼はエルサレムへの巡礼の帰り道だったようです。そして、彼は馬車の車上でイザヤ書の「苦難の僕」の箇所を読んでいました。結局彼はその書の意味がわからず困っていました。そこでピリポはその聖句から説き起こしイエスさまのことを宣べ伝えました。するとエチオピヤ人の宦官は「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか。」と答えました。ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません。」と言いました。そして、宦官は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます。」と告白しました。おそらく彼は歴史上最初のアフリカ人のキリスト教への回心者でしょう。

 この出来事は救いの道がすべての人に開かれ、神の救いのご計画が神の恵みによって始まっていることを現しています。悔い改めを示す洗礼が、イエス・キリストにある罪の赦しと永遠の命の約束によってゆるぎない心の開放へと人々を導くのです。Oさんと父が異口同音に言いました。「心が軽く、爽やかになった。」まず福音を信じるのです。そうすれば理屈はついてきます。水のある場所、福音を信じられる霊が注がれる場所、それがあなたの信仰の決心の場所です。