2002年8月11日

「一つの体」ローマ人への手紙12:1〜12

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

 使徒パウロは大切な救いの原理についてローマの信徒のために語った後、キリストにある具体的な生活についてここから語り始めます。形だけの儀式化した礼拝を神は私たちに求めておられるのではなく、神の御旨を中心に生きること、私たちの心と魂と生活そのものとを神に委ねて生きることの大切さを教えるのです。そして、自分自身を省み、私たちは互いにキリストにあって一つの体であり互いにキリストの体の部分であることを思い起こさせるのです。

 先週、私は重態となった父を専門医のいる病院に転院させてもらうべく、熊本に向かいました。家族を代表して主治医に願いを伝えると、感謝なことに主治医は何の問題もなく了解し、その手続きをすぐにとってくれました。あくる朝、私は感じるものがあり、病床の父に率直に洗礼を受ける意思があるかどうかを尋ねました。すると、父は受けたいというのです。そこで、私はただ洗礼を授けるのではなく、洗礼の意味することを語り、罪の悔い改めと、その罪を赦してもらうために、神の子イエスさまが父の罪の身代わりとなって十字架に死んでくださったこと、三日目の朝、死への勝利と赦しのしるしとして甦ってくださったことを信じることの大切さを語りました。父は言いました。「信じる。そのことを聞きたくてお前に会いたいと思っていた。」不信仰な私は頑固者の父がこんなにもしっかりと自分の罪を認め、福音を信じ、信仰を告白するとは思いませんでした。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)とのみ言葉は、家族の救いを信じるより先に、主イエスさまにまず自分自身の信仰を置くことを求めるのです。パウロが「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。」と言うように、自分の思い、願い、全てを超えて豊かに施すことのできる方にまず自分自身を献げ、信頼を置くとき、主は最善の道を備えて下さいます。

 今は死を待つしかないかに見える父に与えられた救いと洗礼の恵みを通して、私は私たち主イエスを信じる者たちが一つの体であることを思わされました。私たちは互いになくてはならない存在なのです。「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。・・一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(1コリ12:12-26)」私たちは主イエスにあって一つの体、互いに部分なのです。偽りのない愛と、悪に対して敏感な心、尊敬をもって相手に接する態度、誠実に歩み、霊に燃えて主に仕え、希望をもって喜び、忍耐し、たえず祈るとき、私たちは一つの体である私たちがどれほど大いなる存在であるかを知るのです。「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのです。」(エペソ3:10)。弱い、人間の集まりでしかない教会が主の栄光を現す存在としてあるということは、神の恵みの故に他なりません。