2002年8月4日

「委ねる」 出エジプト記16:1〜3

 委ねるという言葉は、頻繁に使われていますが、人間同士の関係で本当にどこまで相手に委ねきることができるのでしょうか。自分に都合の良いことは委ねることができても、全てを委ねるということは私たちにとって難しいことだと思います。出エジプト記を初めて読んだとき、モーセに率いられたこの群衆は何てわがままな弱い群衆なのだとあきれました。これだけ何度も奇跡を目の当たりにしながら、なぜ、神様に全てを委ねることができないのだと思いました。しかし、繰り返し読み返しているうちに、自分たちと全く違わないことに気づかされていったのです。

私たちは何度奇跡にあっているのでしょう。モーセの時のように海が半分に分かれる奇跡は見たことがないと言うかもしれません。しかし、苦しい時に思わぬ助け手が現れたり、今思い返して見ると、本当に奇跡としか思えない人との出会いや、こうしてこの場に座っている自分を考えたときにもなぜだろうと思ったりしませんか?日曜日である今日、私たちは家で寝ていても良いし、テレビを見ていても良いし、もちろん家族でどこかへ出かけていても良いでしょう。なぜ今あなたはここに座っているのですか?

 4月に長女が天国に召されましたが、娘の死に際して奇跡が起こりました。それは、娘が生き返ることではなく、神様に全てを委ねる信仰が与えられたのです。そして、その時今まで経験したことが無かったような平安が与えられました。もし、あの時私が一家の主として自分の力でがんばっていたらどうだったでしょうか?自分の力でがんばっていたら、必ず踏ん張りきれない時が来るのです。十の力でがんばればマイナス十の不安が起こり、百の力でがんばれば、必ずマイナス百の不安が起こってくるのです。娘の死に際して平安が保てたのは私たちが無力であったからです。「なぜなら、わたしは弱いときにこそ、強いからです」(コリント第2 12:9-10)

 私たちには毎日奇跡が起きているのではないでしょうか。目の前の海が真っ二つに分かれているのではないでしょうか。ただそれに気がつかないだけなのではないのでしょうか。あなたは今神様に全てを委ねていますか?苦しいときほど平安があり、辛いときほど幸せを感じます。絶望の時ほど希望が見えてくるのです。出エジプト記の民のように度々不平を言うものでも神様は顧みてくださいます。神様は私たちを見捨てることはありません。神様に委ねて委ねて委ねて生きる毎日でありたい。そう願っています。