2002年7月28日

「福音のためなら私は」1コリント9:19〜27

 4年前の7月25日、和歌山市園部で起った毒入りカレー事件を当時新宿区立戸塚第一中学校3年生、三好万季さんが夏休みの理科の宿題でとりあげ、「4人はなぜ死んだのか」という本に著したことを覚えておられる方も多いと思います。当時、警察も保健所もマスコミも気付かなかった事件の核心に一人の中学生が迫ったレポートは、中学生とは思えないほど冷静かつ論理的な分析で貫かれていました。「最近の若いもんは・・」と昔から言われてきましたが、どの時代でも優れた若者たちはいるものです。たとえば音楽の世界で言えば、新田親子の息子、昌弘さんや吉田良一郎、健一兄弟たちは津軽三味線で大活躍をしています。私が昔好きだった高橋竹山とは比べることはできませんが、彼らの解釈と演奏は津軽三味線の可能性を引き出しています。また、先日TV番組で見た森川浩恵さんは琴と格闘しながら伝統的な琴とはまったく違った琴の魅力を見せてくれています。彼ら皆、自分のこだわりと好きなことに一生懸命努力しているのだと思います。

 さて、ここにその若い日キリスト者を迫害し、その後、復活のイエスに出会い、その人生を180度転換してキリストの証人として生きたパウロという人がいました。彼は言います。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。・・・福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」

この世では、自分のために、あるいは人のために一生懸命働き努力している人たちがたくさんいらっしゃると思います。しかし、パウロの言うように、福音のためにどんなことでもすると言える人が何人いるでしょうか?「福音」とは死をも生かすことのできるキリストにある罪の赦しと永遠の命の約束のことです。世の中に大切なものはたくさんありますが生きとし生けるものたちの霊的命が救われることほど大切なものはありません。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:26)とイエスさまは言われました。確かに世の中には素晴らしいものがたくさんあります。素晴らしい人々が素晴らしい働きとその実とを結んでおられるのを見ることができます。しかし、人間の本当の幸いとは何でしょう?人生の目的とは何でしょう?そして、一つのことのために全てを賭け、そのことのために何でもするとさえ言わしめるものは何なのでしょう?

 パウロは言います。「わたしはヘブライ人の中のヘブライ人・・律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フリピ3:5-8) 老若男女を問わず素晴らしい生き方、考え方、目標を持っておられる方々は多いです。しかし、神は私たちに福音のために人生を用い、福音(人の救い)のために何でもするという生き方を選ぶ人を求められるのです。神は私たち一人一人の人生を永遠という尺度で測ってくださっているからです。どんな仕事、好きなことであれ、あなたの一生懸命を福音のために使ってみてはいかがでしょう?