2002年7月14日

「障害物競走」出エジプト記7:1〜6

 人生を歩んでいくのは生易しいものではありません。たとえ目標を持っていようといまいと節目において様々な障害物に悩まされるのが私たちです。旧約聖書に出エジプト記という書物があり、その出来事に遭遇した一人の人がいました。それはがモーセです。イスラエル人迫害の中、モーセは難を逃れ、王女の子として成長します。しかし、成人した彼は、自分がイスラエル人であることを知り、同胞イスラエル人を救うため立ち上がろうとします。しかし、自分の力に寄り頼んだ彼は失敗し、同胞からも敵対視されてしまいます。モーセ40歳の時でした(使徒7:23)。それから彼はミディアンに逃れ、祭司エトロの娘と結婚し、時流れてファラオは死に、イスラエルの民の苦しみは増し、彼らの叫びは神に届きました。燃える芝の中に現れた主なる神の招きにモーセは応えることができませんでした。イスラエルを救うという壮大な神の御計画にたじろぐモーセの言い訳は口下手ということでした。そして、もう一つの障害は彼の年齢でした。彼はもう80歳にもなっていたのです。

 ジャック・パーという人が言いました。「これまでのことを回想してみると、実に多くの障害物に出会ったが、そのうちの最も大きい障害物は自分自身だった。」私たちが目的をもって歩んでいくなら、必ずと言っていいほど障害物にぶつかります。それはさまざまな形で現れます。モーセのように年齢であったり、能力、才能の低さ、学歴や経験のなさ、資格や資金がなかったり、劣等感があったりと、色々な障害が計画の前に立ちはだかります。しかし、J・パーが言うように、本当の障害とは障害物そのものではなく自分自身なのです。ステュアート・B・ジョンソンという人も「私たちの人生において最も重要なことは他の人よりも先に進んでいくことではなく、自分自身を乗り越えることだ。」と言っています。そこで、そこから学ぶことは、私たちの心の目をどこに向けて歩んでいくかということです。

 イスラエルの人々の兵役につくことのできる20歳以上の登録された数603,550人、女性や子ども年配者などを含めれば膨大な数に及ぶ民を救うという責任を背負って脱出の道を歩み出したモーセの目はどこを見ていたのでしょう。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。」と言われた神は、モーセを神の代理人とさえされたと言うのです。もし、私たちが自分の人生という小さな枠組みを超えて、神が私たち一人一人に備えて下さっている神の御計画に生きることを選び取るなら、神は私たちの能力、才能、資格や資金、劣等感や思いを遥かに超えて私たちと共に全ての種類の障害物を乗り越えて下さるに違いありません。その約束の言葉は、モーセにも与えられました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。(3:12)」いつでも、どんな状況の中でも変わることなく、たじろぐことなく共にいてくださる主なる神に焦点を合わせて生きること、それこそが人生と言う過酷な障害物競走に勝利する道なのです。障害物そのものが問題なのではなく、あなたの心の目が、あなたの人生を支配しておられる神を捕らえているかが問題なのです。