2002年7月7日

「既に勝っている者」ヨハネ福音書16:25〜33

 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」イエスさまは十字架の苦難と死を前にして、弟子達に語られました。しかし、弟子たちにとってはイエスさまがどれほど素晴らしい言葉を語られ、業を行われたとしてもイエスさまご自身が死んでしまわれたらそれらのことは何の意味もなさなくなるのです。「死」という現実が主イエスの教えと約束を実のないものとしてしまうのです。しかし、主イエスさまは確かに十字架に死に、葬られましたが、約束通り三日目の朝よみがえって下さいました。それこそが「死」に対する勝利、この世に対する勝利の証でした。

 使徒パウロはコリントの信者のために手紙を書きました。彼はそこで、この世での最高の道を教えました。それは、「愛」の道です。彼は、たとえ、どんな素晴らしいことを私たちが成し遂げようとも愛がなければ無に等しく何の益もないと言います。そして、信仰と、希望と、愛は、全てのものがたとえ滅んだとしても残り、その中でも最も大いなるものが、愛であると言います。この三つの宝に共通することは、約束と継続だと言えます。信じることは神との約束に立つことです。そして、希望こそがその約束によって保障されていることです。たとえどんなことがあったとしても神の愛が約束として与えられている以上、信じ続けることの中に、約束の実現が起こるのです。信仰の父、アブラハムにも、その子ヤコブ、それに連なるイサクにも神の祝福の約束が覆されたり消えて無くなったりはしませんでした。エジプト脱出への指導者モーセにも、それを受け継いだヨシュアにも主の導きの約束は途切れませんでした。「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」と、主は主を信じ続ける者を支え励まし共に歩んでくださいました。

 今年はワールドカップが大きな話題となりました。私もにわかサッカーファンとなりテレビに釘付けになりました。そんな中、気付いたことがあります。結果を知っていてニュースを見た時、応援しているチームが勝ったのと負けたのとではニュースの見方や感じ方に大きな違いがあったのです。たとえば、日本チームが準々決勝への進出をかけて戦い負けてしまったトルコチームとのゲームを伝えるニュースでは、何度見て願っても日本チームの負けが覆ることはありませんでした。逆に、ロシアチームとのゲームでは、日本が快勝し、ニュースを見ても余裕がありました。中田のシュートがはずれても、戸田がパスをミスっても気になりません。なぜなら、どんなミスや失点があっても結果がもうわかっていたからです。

 主イエスは続けて言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」たとえどんなことが私たちに起ころうとも、世に勝利してくださった主を信じる限り、私たちも主イエスと共に人生の勝利者として生きていく道が備えられているのです。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(1ペテロ5:4,5) 大切なことは勝利を知っていることよりも、世に勝利してくださったイエスを信頼して歩むことなのです。