2002年6月30日

「愛する子」サムエル記下18:28〜19:1

「わたしの長子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」ダビデは自分の息子アブサロムの戦死の報を受け、身を震わせて泣き崩れました。アブサロムは王である父に反逆し、謀反を起こし、命まで狙った裏切り者でした。王の立場としては絶対に許す事のできない、殺されても当然の者だったのです。しかしダビデはその死を一人の父親として嘆き悲しみ、周りの目も構わずに泣き崩れたのです。親の愛とはそういうものです。私も自分の子どもたちがどんなに憎らしいことをしても、悪いことをしても、やはりかばってやりたいし、守ってやりたいと思うでしょう。

サムエル記を読んでいると、このダビデの息子たちを無条件に愛する姿が、実は神さまがダビデのことを思うその愛と同じなのだということに気が付くのです。自分に対して何度も罪を犯すダビデを、神様はいつも最後には赦します。その姿はまるで自分の息子には甘い父親のようです。

その愛する息子ダビデに連なる系図に、神様は救い主イエス様を誕生させます。イエス様もはじめに地上でヨハネからバプテスマを受けた時、神様から「これはわたしの愛する子」と呼ばれました。そしてその最も愛する息子に神様はあえて苦しみを与えられるです。イエス様は私たち人間一人一人の罪をすべて背負って十字架に掛かり、死んでくださいました。神様もイエス様も、本当に愛している者のためにしか耐えることのできないような苦しみをあえて受けられたのです。それはこのことを信じる者がすべて神の子とされるためでした。だから、イエス様の十字架を信じ、その愛と赦しを受け入れてバプテスマを受けるなら、私たち一人一人も水から上げられる時にイエス様と同じように「これはわたしの愛する子」と神様がおっしゃって下さるのです。

これほどの愛と恵みを神様から受けた私たちはどうすればいいのでしょうか。神に感謝の捧げ物をし、一日中聖所で祈ればいいのでしょうか。そうではありません。神様が私たちに望んでおられることは、まず神様が下さったその愛を「知る」こと。そしてそれを「伝える」ということだけだと思うのです。

昔の将棋指しで芹沢博文という人がいました。芹沢さんは親分肌で、後輩の面倒を本当によく見る人でした。弟弟子だった田中虎彦九段が、自分の結婚式の仲人をしてもらった御礼をしに芹沢さんのお宅に伺ったとき、こんなことを言われたそうです。「お前らに何を返されても嬉しくない。もし俺がしたことをありがたいと思うなら、後の者に返せ。」自分が受けてきたことをお前は後輩にしてやればいいということです。

本当に愛をもって何かを与えることができる人は、見返りなど求めません。むしろそれを嫌がります。親だってそうです。ましてや神様がそんなことを考えるはずが無いのです。神様はすべてを作られた、すべてをお持ちの方ですから、人間が何かをしてあげられるような方でもなければ、してもらう必要もない方です。私たちはただ神様から愛されていると言うことを知り、それをまだ知らない人に伝えていくだけでいいのです。芹沢さんが言ったように、神様からいただいた愛を有り難いと思うなら、後の者にそれを返せということだと思うのです。

しかし世の中には自分が愛されていないという人もいるでしょう。嫌なこと、辛いことばかりで、とてもじゃないけど自分を愛してくれているとは思えないという人もいると思います。そういう人は実は自分自身が神様を、また他の人を、本当に愛したり、信じたりしていないからではないかと思うのです。ダビデが息子アブサロムの謀反によって都エルサレムを追われる時、イスラエル人にとって最も大切な「神の箱」を担いでついてくるレビ人たちにダビデは「神の箱は都に戻しなさい。」と言いました。なぜかというと、ダビデは続けてこう言うのです。「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せて下さるだろう。主がわたしを愛さないと言われる時は、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように。」ダビデはどんな状況にあっても神様が自分を愛してくださっていることを疑わず、神様がして下さることにすべてを委ねて信頼し、ありのままに受け入れていました。このダビデに連なるイエス様、そしてそのイエス様に連なる私たち一人一人、すべて神様の「愛する子」なのです。