2002年6月23日

「胸有成竹」詩篇127:1〜2

「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」[口語訳]中国の古語に「胸有成竹」という言葉があります。水墨画の達人は筆で墨をおく前に既に心の中で絵を完成しているというのです。子どもたちの絵が素晴らしいのは、完成していないからだと思うのですが、画家の絵は別の意味でその心の中にある世界を完成させている素晴らしさがあります。墨一色で描き上げられる墨絵には下書きはありません。一気に描き上げられる絵は心の中の絵のコピーとさえ言えます。そして、それを再現するために画家は練習を繰り返し、努力を重ねていくのです。

 私がまだ聖書のこともイエスさまのことも知らなかったとき、私は自分の人生を建て上げていくには自分が努力していくしか道はないと信じていました。しかし、いくら努力しようと、願おうと、思い通りにはならないのがこの世であることも次第にわかってきました。そして、聖書に出会い、主イエスさまの救いの福音に出会ったとき、自分の願いをはるかに超えた神のご計画があることを知ったのです。

 昨日、神奈川婦人連合の一日修養会が平塚教会で行われ、ゲストの金 纓(キム ヨン)先生から「旅人として」という題で講演をいただきました。先生がその波乱万丈といえる人生の中でいつも感じておられたのは、人生は「旅」であり、私たちはこの世の「寄留者」でしかないということでした。48歳にして乳癌の手術、そして再発の恐れのある中での牧師辞任と放浪の旅への出発と、結局先生の生き方を決めたのは主により頼んで信じる道を歩むということでした。過ぎてしまった昨日をくよくよ悩んで生きるのでもなく、明日に向かって不安を抱いて生きるのでもなく、主に信頼し「今」という時を最大限に生きるために「今日しかできないこと」「今しかできないこと」に焦点を当てて生きることの大切さを先生に語っていただきました。旅人は、未練を残しながら生きるのではなく、今を惜しみなく生き、主に信頼して重荷を委ね、帰るべきところを目指して生きるのだと言います。寄留者としての私たちの旅は主の御手の中にあります。そして、人生という旅のプランそのものも神の手によるものなのです。

 「胸有成竹」神さまは全ての計画の達人です。事を始められるとき、神さまは計画もなく目的もない方では決してありません。それどころか、神の御手は壮大な人類の救いの計画のみならず、私たち一人ひとりの人生の些細な部分まで及び、そこに喜びと感謝と言う恵みを与えてくださるのです。そして、その計画を支え、裏打ちするものも神さまからの贈り物、「主イエスの福音を信じる信仰」です。パウロは言います。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(1コリント3:10)この土台、すなわち私たちの罪の身代わりとして十字架に死に、甦ってくださった主イエスさまという土台こそ、私たちがたとえどんなことがあったとしても「今」という時を喜んで最大限に生きることのできる保障なのです。

 主なる神が私たちの人生の設計者であり、建築者であられることは何よりもの幸いです。そこで初めて私たちの傾ける努力や重ねる苦労が空しいものでなくなるのです。私たちの人生を神さまという人生の達人に任せて歩みたいものです。