2002年6月16日

「御覧なさい」ヨハネによる福音書19:25〜27

岩切健牧師は体の異変に気付き、病院を訪ねると最初若年性痴呆症と診断され、1995年それがアルツハイマー病であることが分かりました。55歳という若さのでの発病でした。奥様の裕子さんはその時から残酷とさえ思えるような介護の戦いを余儀なくされ、十数年にもわたり不治の病と格闘されました。その介護の記録、そして奥様の戦いを支えた人々との交流を描いた文集「祈りをともに」は壮絶な介護と看護の日々を赤裸々に綴っています。後に奥様はその戦いの中で、苦しんでいたのは自分だけではなく、脳神経が犯され人格が崩壊していく恐怖と戦っていた夫もそうだったこと、むしろ自分よりも夫の方が苦しんでいたのだということを知ります。つい最近のことなのに、まだその時は介護法もなく在宅での介護だけを考えておられた奥様はその過酷さに疲れ果て一緒に死ぬことさえ考えられたと言います。そんな中、「痴呆老人を抱える家族の会」という団体があることを新聞で知り、多くの同じ苦しみを担う人々と関わるようになり、デイケア−やショートステイ、病院と家庭の中間施設である老人保健施設などの存在を知ります。アルツハイマー病や痴呆症に限らず、長命ということににあこがれてきた私たちに「老い」という古くて新しい問題が始まっています。

 イエスさまがその伝道生活を十字架という受難をもって終えられるとき、その十字架のもとに母マリアや弟子たちが身を寄せました。イエスさまは苦しみのただ中にありながら母とそのそばにいる愛する弟子とを見てこう言われました。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」母マリアにイエスさまが他人行儀に「婦人よ」と語りかけられたのは、イエスさまが最初の奇跡をおこされたガリラヤのカナでの婚礼の出来事以来のことでした。そして、イエスさまは弟子に言われました。「見なさい。あなたの母です。」今まさに死に行こうとしているイエスさまはご自分の母の行末を愛弟子に託し、新しい親子の関係を二人に与えられたのだと思います。二人はその言葉をどのような気持ちで受け止めたことでしょう。

 今、教会の祈り会では「十戒」を学んでいます。丁寧に一つ一つの戒めを学び続けて、先週から第5戒「あなたの父母を敬え。」(出エジプト20:12)に入りました。父母を敬うこと、それは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができるためであると戒めは説明します。「敬う」(カバッド)とは重く扱う、重んじるという意味です。年を重ね、肉体的にも存在価値においても、ある意味では存在感さえも軽くなっていく父母を重く扱うのだというのです。夫の主治医が、記憶や人格を次第に失っていく夫のことを「どうですか、ご主人の呆けは」と気軽に言われ、岩切夫人はショックを受け病院を変えたと言います。親ではなく、まだ若い夫に向けられる人格を最も軽く見積もるような「呆け」という言葉を乗り越えてご主人を重く扱うために奥様はどれだけ犠牲を払われたことでしょう。

 しかし、この十戒の戒めにも、イエスさまがその母と愛弟子とに与えられた言葉にも共通の真実があります。それは、人間関係の基本は親子関係にあると言うことです。親を尊敬することができる人は自分や人をも尊敬することができると言います。どんな親子関係の中にも主イエスさまの犠牲の贖いの十字架が立てられるとき、そこに新しい人間関係が作り上げられます。神がまず、思い通りにならない私たち人間に近づいてくださり、自分中心でわがままな私たちを受け入れてくださり、その罪のために身代わりとなって死んでくださったことにより、私たちに新しい命と新しい関係とをもたらしてくださったのです。「御覧なさい」とのイエスさまの言葉はその新しく与えられた関係に目を向けさせるのです。