2002年5月26日

「勇敢な人」箴言3:5〜8

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になりあなたの骨は潤されるであろう。」

 今日の御言葉は、私を救いに導いてくれた宣教師が事あるごとに私に与えてくれていた言葉です。そして、同時に私にとって大切な、信仰生活の基盤としている言葉でもあります。この言葉は私たちに、信仰は度合いや程度の問題ではく、主なる神さまに全信頼を置いて生きることを身に付けていく生涯に渡る訓練の場であることを教えてくれます。私はとかく自分の身の回りに起こる出来事を経験に基づいて理解し判断する傾向があります。問題解決を自分の経験や価値観で判断しがちなのです。しかし、そんな時、私は少しも神さまの存在を感じることができません。私のやっていることが理屈通りだから理屈通りの答えしか返ってこないせいなのでしょう。キリストにある救いを受け入れた人々が私も含め、その喜びだけでなく、神のご存在を、時とともに感じることができなくなるのは、神に全信頼を置いて生活する訓練をしなくなることからもたらされるものではと、私は思います。

 箴言とはヘブライ語で、もともとは「比較」という意味があります。それは、何かと比較し、譬えて真実に迫り、それを明らかにする言葉とも言えます。神を信じ、従い歩むことを作者は「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えよ」と言います。それは、神に対する完全なる信頼を意味します。H・ナウエンの「最後の日記」の中で、彼は「フライング・ロドレース」というサーカスグループとの出会いについて書いています。彼は、そのグループが見せる訓練された肉体によって表現されるパフォーマンスに霊的なものを読み取るのです。彼は長い間神を信じ御言葉に従い、神に全信頼を置いて生きてきたと思っていたのに、彼らの演技を見、体験して自分の信仰を振り向かざるを得なくなるのです。(それを読んだ私にとっても衝撃的でした。)

 サーカスのサーカスたる出し物に空中ブランコがあります。その空中ブランコの演技者二人、すなわち、飛ぶ人と飛ぶ人をつかまえてくれる人にはさぞや絶妙のタイミングと二人の間の緊張関係があるのだろうと私は思っていました。そして、二人がつながるためには両方がしっかりとお互いの腕をつかみ合う必要があると思っていました。しかし、実際はそうではなく、「飛ぶ人は決してつかまえてくれる人の手を自分からつかんではいけない。完全に(つかまえてくれる人を)信頼して待つのだ。」と言うのです。飛ぶ人は飛び出した瞬間、ただ自分の腕を伸ばして、つかまえてくれる人に自分の全てをまかせるのです。彼は、そのためだけに練習を重ねるのです。

 目に見える世界で勇敢な人とは、危険をも顧みず自分の力で何かを成し遂げ、自分の手で何かをつかみ取った人のことを言います。しかし、目に見えない信仰の世界で本当に勇敢な人とは、自分を確実につかみとってくださり決して取り落とすことのない方を信じて自分の全てを委ねることのできる人と言うことができます。神さまが私たちに望んでおられることは、私たちが完全に主に信頼する者になることです。もっと分かりやすく言えば、完全に信頼する者になるための練習をあきらめずに続けていくことです。神さまはそのためにもキリスト・イエスという安全ネットを私たちのために用意してくださって、私たちが本当に勇敢な人となるために訓練してくださっているのです。「そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になりあなたの骨は潤されるであろう。」