2002年5月19日

「満たされること」ローマ書8:26〜28

 今日はペンテコステ、2000年ほど前、神の聖霊が初代教会の人々の上に下ったことを記念する日です。以来、教会は人間主導の共同体から、神主導の共同体として今日までキリスト・イエスの福音を宣べ伝えて来ました。巷ではサッカーのワールドカップの開催で盛り上がっていますが、昨晩、テレビ神奈川で世界のサッカー選手が主イエスさまを証する番組が放映されました。10人あまりのクリスチャンで現在第一線で活躍し、今回のワールドカップでのゲームにも選ばれている彼らの口から語られた証に私は感動を覚えました。「この世の名声や財産は消え行くものであり、うつろいやすいものです。しかし、主イエスさまに出会ってから自分の人生のゴールが変わってしまいました。」「私の本当に目指すゴールとは、たとえ私が死んでも無くなることのない天国です。そして、イエスさまとの個人的な関係を築いていくことです。」と、どの選手も表現は違っていても同じことを力強く語っていました。そして、自分のプレーを通して多くの人々に主イエスの福音を伝えて行きたいと言っていました。自分に与えられた人生と努力する力とを何処で何のために使っていくかを定めている人は幸いです。その信仰はどんなことがあっても見放すことのない神によって支えられており、慰めと励ましに満ちています。

 「同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、"霊"の思いが何であるかを知っておられます。"霊"は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」パウロによって歌い上げられるこの励ましの言葉は、信仰によって生きることの過酷さに生きる私たちに平安と潤いを与えてくれます。信仰による魂の救いは私たちに永遠の命への約束をもたらします。しかし、それは自動的にこの世の幸せを同時に保障するものではありません。私たちがたとえ強い信仰を持っていたとしても思いがけない試練に会うことがあります。神さまを信じていても耐えられないような苦しみや悲しみに遭遇することも私たちにはあります。そして、むしろその方が多いと言えるのが信仰生活かもしれません。

 私たちに訪れる、ぐちゃぐちゃに踏みにじられるような体験の中で、神を信じる者たちに与えられる平安はこの世のものとは違います。まるで、足で踏みつけられ、搾り取られた葡萄の液が神さまの摂理という御手の中で発酵し、時至って芳醇なワインになるように、信じる者に最後にもたらされるものは「救いの完成、熟成」です。イエスさまは、カナの婚礼の場で水を上等のワインに変えるという奇跡をもって伝道の業を開始されました。それは、福音そのものが実に神の祝福であり、主の御手の中で全てのことが喜びに変えられることを物語っています。

 H・ナウエンは、神の霊無くして霊的生活はないと言います。福音を信じることも、神に信頼し神とともに生きることも、私たちが神さまからいただく御聖霊が私たちの内に共に居てくださらなければ本当の意味で霊的に生きることはできないと言うのです。そこで私たちに求められることは、自らの業を捨て神の満たしを待つことです。マラナタ、主よ来たりませ・・・自分を捨て神にのみ寄り頼む人に主は真実を尽くしてくださいます。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(8:28)とパウロが言う通りです。