2002年5月12日

「全ての造りぬし主なる主」イザヤ書40:12〜14

 先日、郷里の熊本を訪ねた時、父方の叔母をお見舞いしました。叔母は7年前、相思相愛だった叔父と死別し、故あってひっそりと長屋のような貸家で1人暮らしをしています。重傷の肺気腫を患い、苦しく眠れぬ夜が続く時、ラジオの深夜放送を聞いたり、叔父のことを思い出したりして苦しさを紛らわせながら生きています。叔母は早く亡くなった叔父に会いたい、どうしてまだ生きていなければならないのかとつぶやくことがあるのだそうです。そんな叔母に気休めの言葉は通用しないと思いますが、たとえどんな理由のわからない状況の中でも私たちの思いを遥かに越えた神のご存在とその計画があることを分かってもらえたらと願っています。

 使徒パウロはピリピ書で「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」と言います。パウロにとって命とは運命によるのではなく結局神のご計画にあるのだと言うのです。私は叔母が何と言おうと叔母は神の愛とご計画の中に意味と目的があって生かされているのであり、亡くなった叔父も神のお取り計らいにより召されたのだと確信しています。また、先週召された内山賢三さんの葬儀を通して、神さまがどんな悲しみの中にあっても私たちに生きた希望と死を死で終わらせない力ある神であられることを教えてくださったことも、参列してくださった多くの方々のみならず、私たちにとっても大きな恵みのひと時でした。

 さて、今日の聖書の箇所は預言者イザヤを通して語られる主なる神が自身のことを明らかにされた所です。主は言われます、「手のひらにすくって海を量り手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし山々を秤にかけ丘を天秤にかける者があろうか。 主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。」と。全てを造り、全てのことを知り、全てのことを司る神さまを心に信じて受け入れ、その前にへりくだる事、それ以上の幸いは人にとってありません。さまざまな出来事に疲れ、人間関係に傷つき、重荷を負って苦労している私たちがそのただ中にあって幸いを得るために必要なことは、私たちのためにひとり子さえ惜しまず差し出してくださった愛の神を知ることです。それは、私たち一人ひとりに分け与えてくださったさまざまな人間関係の中に、創造の神の御手があることを私たちが畏れをもって認めて生きることでもあります。

 今日は「母の日」です。母に感謝するとともに、私たちそれぞれの母を与えてくださり、その母を通して私たちを生み出してくださった神がその記念日の主でもあることを感謝する日です。神は一年のうちの一日だけを私たちを愛してくださる記念日とされたのではなく、毎日その愛の御手の中に置いてくださっています。そして、今日も私たちにそれぞれの関係を通して祝福を与えようとしてくださっています。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなくその英知は究めがたい。疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(40:28-31)