2002年5月5日

「子供のように」マタイ18:1〜4

 「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。』」

 先週、妻と私は熊本を訪ね、病気の私の父を見舞うことができました。さまざまな病歴を持ち、今糖尿病と腎臓病(腎不全)を患っている父に何とか造り主なる神と、主イエスにある救いの福音を伝えたいと、その時を求めていましたが、ようやくゴールデンウィークにもかかわらず切符を取ることができました。前日、妻が目のほとんど見えない、そして書道をたしなむ父のために、キリスト教書店で買い求めた聖書のみ言葉を短冊にしたカード32枚をお土産に出かけて行きました。久しぶりに会い、じき80歳になる父はさすがに歳をとったなという印象でした。5年前悪性リンパ腫の末期と診断され、瀕死状態から不思議に癒された母と共に時間を過ごすのが私たちの今回の帰郷の目的でした。限られた短い時間の中で伝えたかった言葉をとりついでくれたのは「み言葉」の短冊でした。父はわずかに見える左目で短冊を読み始め、「いい言葉だね。素晴らしいね。」と言いました。

 私はクリスチャンとなり、牧師となっても福音をまともに父に伝えることが今までありませんでした。それは、私の父に対する偏見から来ていたものだと思います。浄土真宗を信じ、神社の総代もつい数日前にようやく辞任するほど神道に入れ込み、わけのわからない水晶玉まで拝んでいるような父が、福音の言葉をまともに聞いてくれるとは思っていなかったのです。今思うと、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」との言葉も自分の中で形骸化していたのかもしれません。

 父は全部の短冊を読み終えると、自分の心に留まった言葉を選び始め、その中から10枚を選び出しました。イザヤ書41:13、43:4、マタイ11:28、ヨハネ11:25、14:6、1コリント13:13、10:13、ローマ8:28、1テサロニケ5:16-18、1ヨハネ4:16。それから私は聖書を開き、創世記を示しました。すると、父は大きな虫眼鏡でみ言葉を追い始めました。父はわずかな時間で6章まで読み進んでいました。そして、言うことには、「この神様が全てのものをお造りになった神なんだね。」と言うのです。その夜初めて父母、妻と私、一緒に祈りました。

 あくる朝、父は先に起きており、短冊を読んでいました。「同じ言葉が今日は違って感じる。」そして、「自分は一人じゃないような気がする。誰かが居てくださる気がする。」というのです。デイケアに出かけた父は、センターで持ち込んだ短冊を友達に見せ、読んでもらったそうです。すると、職員もお爺ちゃんお婆ちゃんも皆集まり、み言葉を分かち合ったそうです。父曰く、「一人で読むのはもったいなか。」

 最後の夜、父は讃美歌を教えてくれと言いました。そこで、「慈しみ深き」と、クリスマスに歌ったことがあるという「きよしこの夜」を妻が拡大コピーしてくれ、父と私とで讃美しました。(私にとって、それは奇跡でした。)父は聖書を通し、イエスさまの十字架を通して現れて下さった神を信じてくれました。

 歳をとり、痴呆も認められる父は、確かに昔の勢いはありませんでした。しかし、さまざまな能力や知恵や知識を失いながら、父はきっと子供に帰っているのだと思いました。そして、その弱さの中に神さまは現れて下さり、子供ように神を見ることができるようにして下さったのだと今は心から思えるのです。