2002年4月28日

「今ここに生きる教会」フィリピ書2:1〜5

 ヘンリー・ナウエンが「今日のパン、明日の糧」の中でコミュニティについて、こんなことを言っています。「コミュニティという言葉には、色々な意味があります。積極的な意味もあれば、消極的な意味もあります。コミュニティは、安心して一緒にいたり、食事を分け合ったり、共通の目標や喜びに満ちたお祝いを共にすることなどを私たちに思い起こさせてくれます。コミュニティはまた、分派的な排他性や内輪の言葉、自己充足的な孤立やロマンチックな愚直さを呼び起こします。しかしながら、コミュニティは何よりもまず、心の質なのです。それは、私たちが自分のためにではなく、お互いのために生きているという霊的な知識によって生じます。コミュニティは、自分の利益よりも他の人々の利益を大事にするということを受け入れる力がもたらす実りです。したがって、問題となるのは"どのようにコミュニティを作ることができるか"ではなく"与える心をどのように伸ばし、養い育てていくか"なのです。

 フィリピのクリスチャンに宛てた手紙で、パウロは教会に巻き起こっていた反対者たちからの攻撃に耐えるようにとの励ましと、信仰上の内的な戦いの必要を語っています。「教会」というコミュニティほど外的に、そして内的に揺るがされ、いつの時代にも消滅の危機に瀕した群れは無いのではないかと私は思います。教会はある意味で、聖人君子の集まりでも、立派な模範的人間の集まりでもなく、極論すれば罪人の集まりと言っても過言ではありません。何時でも、どんな出来事であっても教会は人の集まりである以上、崩れ分裂し無くなってもおかしくない存在です。しかし、決して私たちが忘れてはならないのは、「教会」は人間の働きによってできたものでもなく、人間の努力によって支えられているのでもないということです。心もとない、人間の集まりである教会は主キリストの福音を信じる信仰の土台の上に築かれ(マタイ16:18)、聖霊注がれて生きたコミュニティとなった(使徒2章)と聖書は語ります。そして、それだけではなく、教会はキリストを頭とするキリストの体(エペソ1:23)であり、神は教会を通してご自身の知恵を世に知らしめるとパウロは言います。

 地域にある共同体としての私たちの教会は、教会堂も含めた教会作りを計画しています。しかし、いつも互いに確認しているように、私たちの第一の目的は教会建築ではなく、神の国とその義を求めること、すなわち教会員一人ひとりが深く個人的な愛の関係を主なる神さまと築いていくことです。その実として建物や伝道の計画が与えられていくことを皆で経験し、目に見えぬ神を味わっていくことなのです。神さまにしかできないことを私たちが味わっていくことは私たちだけのものであってはならないと思います。教会は地域に遣わされた存在であり、ナウエンが語るように、与えることを知り、伸ばし、互いにそれを養い育てていく共同体だと思うのです。そのために最も必要なことは、神さまがみ子主イエス・キリストを私たちのために与え、捧げてくださったことを知ること意外にはありません。だからこそ、教会はただのコミュニティとは違います。聖霊により、恵みによって主イエスを救い主と告白する、生きておられる神を証する霊的共同体なのです。