2002年4月21日

「失われたものを救い出す主」ルカ19:1〜10

 ザアカイは徴税人でした。徴税人は決められた額以上の取り立てを行い、私腹を肥やしていたので、ザアカイも皆から嫌われ、友もおらず孤独だったと思われます。お金が全てという生活をしてきた結果、自分自身を失うことになっていました。そのような人を「失われた者」とイエスは言います。

 さて、ザアカイが住むエリコの町にイエスが来られました。このイエスを何とか見てみたい。しかし群集に遮られて見る事ができない。皆に嫌われていたのでだれも譲ってくれない。しかし自分の今の孤独感、心の渇きを何とか潤したい、そういう思いが強かったのでしょう。考えたあげく、木に登って、一目見ようとしたのです。ザアカイは必死でした。ところが、イエスがその木のそばを通りかかったとき、思いがけない事が起こりました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」イエスは御自身より上の、木の上にいるザアカイに優しく語りかけて下さいました。ザアカイは驚いたに違いありません。人からも社会からも軽蔑され、これ以上人生のどん底はない、という孤独な状況にあったとき、そのどん底よりもさらに下から、イエスは声をかけて下さいました。こんな慰めはあるでしょうか。ピリピ2:6に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。イエス・キリストは常に、へりくだり、私たちの目線それ以下に降りてきて、痛み、悲しみ、苦しみを共にして下さり、私たちを憐れんで下さるのです。

 イエスは、さらに「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われました。原文は「あなたの家に泊まるように前から定められている。」という意味だそうです。なによりイエスがザアカイを捜し求めていたのです。ザアカイにとっては思いがけない出来事だったでしょう。ザアカイはこのイエスの語りかけが、自分にとってどんなに大きな許しであり、どんなに豊かないつくしみであるかを理解したのだと思います。

 なぜイエスはザアカイにだけ声をかけたのでしょう。ルカ15章に迷える羊のたとえ話があります。羊飼いは99匹を残して、迷い出た1匹の羊を徹底的に探し出すのです。見つけ出すまで絶対にあきらめませんでした。主イエスにとって、どうでもよい人などいないのです。一人一人がかけがえのない愛されている者なのです。ザアカイも神様との関係から迷いでた者「失われた者」でした。この「失われた者」を取り戻すため、イエスはザアカイにこの上ない愛を注がれたのです。

 さて、喜びにあふれたザアカイはイエスを「主よ」と呼び、イエスに従う決意を明らかにしていきます。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」このとき、今まで金に執着し、「失われた者」であったザアカイが、主イエスによって救われたことがわかります。イエスは「今日、救いがこの家を訪れた。」と言われました。救いがザアカイだけでなくザアカイの家族一人一人にも、もたらされたと言っています。私の子供もまだ救いに至っていませんが、罪人であるこの私が、神に従っていくとき家族にも救いがもたらされると約束して下さっています。そのことを信じ、祈り、待ち望みたいと思います。

 ザアカイは、イエスを一目見たいと切に願っていたのですが、その願いを起こさせたのは主イエスだったのです。イエスがザアカイを探し求めていたのです。ピリピ2:13に「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」とあります。痛み、悲しみ、苦しみのなかで切に祈り願い求めるとき、神様は逆に私たちの内に働きかけ、その願いを起こさせて下さるのです。それならばその願いを聞き入れて下さらないはずがありません。

 「今日、あなたの所に泊まる」「今日、救いが訪れた」今日が強調されています。神様の救いは、過去でも将来でもない。痛み、悲しみ、苦しみのただ中にある今日、まさに今、神様の救いは与えられるのです。どんな時でも共にいて私たちを見守って下さる神様にすべてを委ねて、今日そして今のときを大切に、神様に従って歩んでいきたいものです。