2002年4月14日

「私たちがまだ弱かったころ」ローマ人書5:1〜8

 「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって、神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」5章冒頭でパウロは再び人の救いの根源が人の行いによってではなく、神による恵みの信仰によってもたらされたこととと、神の平和も栄光にあずかることも既に手に入ったも同然のことと教えてくれます。パウロによれば信仰の醍醐味は、救いによってもたらされる約束が、目に見える形で実現していないにもかかわらず、既に得たものとして生きられることなのです。

 ある科学的な調査によれば、空には1000丁個もの恒星があり、驚くことに世界中の海辺の砂粒の数を推定したところ、およそ1000丁個だったそうです。4章で語られる信仰の父、アブラハムに約束された子孫の数は、空の星、海辺の砂のようになるとの神の言葉はあながち出任せではないようです。その約束を信じて行動したアブラハムの信仰は「苦難が忍耐を生み、忍耐が練達を、練達が希望を生む」ことを証明したのだと思います。そして、この希望は生きており、私たちを欺くことはないとパウロは断言します。何故なら、聖霊によって神の変えられることのない絶大なる愛が信じる者の心に注がれているからだと彼は続けるのです。

 神の絶大なる愛は、キリスト・イエスの十字架の死によって表されました。私たちがまだ弱かったとき、すなわちまだキリストの名も知らず救いの意味が何であるかも知らなかった時、イエスさまは死んで下さいました。そして、罪人、すなわち神の名を知り、福音による救いを知っていながら知らぬ者のように生きていた時でさえ、主イエスは死んで下さったのです。しかも、それに留まらず、敵であった時でさえ、すなわち故意に神さまに敵対し、冒涜するような生き方をしていた者のためにさえ、イエスさまはその血によって敵であった私たちを神の怒りから救って下さったとパウロは申します。罪が増したところに恵みはなおいっそう満ちあふれたと彼は言います。しかし、それは(さらなる恵みを受けるための)悪い行いの奨励として言われていることではなく、私たちを罪から救って止まない神の愛の峻厳さを語っているのです。元に戻って罪の奴隷となることの空しさと、新しい命に生きることの豊かさを語っているのです。

 神の救いの恵み、福音を信じる信仰は、その理解しがたい福音を頭ではなく、心で信じることを得させる聖霊の注ぎによってもたらされます。だからこそ救いの約束の基は私たちの決心にあるのではなく、神のご意志にあるのです。

 私たちがまだ弱かったころ、神のご存在を知る由もなかったころ、私たちを罪から救うために、救いの約束を結ぶために、主イエスさまは私たちのために十字架にかかり、死に、三日目の朝甦ってくださいました。その愛に愛をもって応答することが罪に死に、新しく生きるものとなることなのです。そして、約束を既に得た者として生きることがクリスチャンであることの醍醐味なのだと思います。