2002年4月7日

「心燃えて」 ルカ福音書24:13〜17

 私は牧師となり、今までに何人もの方々の葬儀を司らせていただいてきました。その度に、亡くなった方と対面する時、いつも心がけてやっていることがあります。それは、亡くなった方を生き返らせてくださるようにと神さまにお祈りすることです。ヨハネによる福音書11章では、イエスさまの愛された姉妹、マリアとマルタの兄弟ラザロが病気で死に、それを知ったイエスさまが彼を生き返らすという奇跡の出来事が記録されています。残念ながら私の願いは一度も叶ったことはありません。しかし、私はむしろその事実に、神さまの毅然とした私たちの命へのご計画を感じるのです。知らせを受けたイエスさまはこう言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

 Kさんの死は私たちにとって受け入れがたい、理解しがたい謎として残されました。しかし、むしろ私はそれを謎のままにしておきたいと思います。人間的にはさまざまな憶測や解釈が可能です。彼女の病気が彼女を死で終わらせたのならそれでも良いでしょう。しかし、イエスさまの言葉を中心に考えれば、彼女の死は、彼女にとっても私たちにとっても終わりではなく始まりなのです。

 ルカによる福音書24章では、復活されたイエスさまがエマオという村に向かっていた二人の弟子と遭遇される出来事を記録しています。彼らは復活されたイエスさまが近づかれても気がつきませんでした。新しい朽ちない体をもってイエスさまは復活なさっていたからです。イエスさまのご受難の出来事を話し合いながら歩いていた彼らにイエスさまは質問されました。「その話は何のことですか?」二人は暗い顔をして立ち止まりました。そして、事の一部始終を彼らはイエスさまに話したのです。するとイエスさまは彼らの不信仰を嘆き、聖書全体にわたって示されていたイエスさまについての神さまのご計画を説明されたのです。

 Kさんの出来事を電話で知った時、頭の中が真っ白になりました。そして、心が暗い思いに支配されました。急いで指定された病院に向かいKさんに対面した時は既に亡くなっていました。「主よ、Kさんを生き返らせて下さい。」と心の中で祈りましたがそれは叶わない願いでした。しかし、きれいで寝顔のようなKさんの死を確認し、ご家族、結婚を望んでいた彼氏、医師と看護婦さんたちとの前で祈りを捧げた時、私は、この死はこのままでは終わらないことを予感しました。

 「それ、何のこと?」復活のイエスさまは弟子たちに問われました。あなたがたの出来事の捕らえ方と、わたしのそれとは違うとおっしゃっているのです。そして、聖書に約束されていることの正しさとも違う。よく、信仰に立って考えてみなさいとイエスさまはおっしゃるのです。1995年1月23日、Kさんの祖父、Hさんが天に召されました。Hさんは病気を負ってしまった時、健康に気をつけなかったことを後悔したと書いておられました。しかし、それでもその病気を通してキリストにある救いの約束をいただき、後悔の念にとらわれることなく平安の中、時世の句を残して天に凱旋していかれました。「天国の片隅にゐて歌つくり ゆっくりとくる君らを待たむ」 あまりに早すぎたKさんの昇天は祖母Fさんがおっしゃる通り、おじいちゃんのHさんを驚かせているに違いありません。そして、イエスさまがラザロを生き返らせた時のようにKさんにも「Kさん、出てきなさい。」の声に復活の約束が与えられていることを感謝するのです。

 エマオ途上でイエスさまにお会いした弟子たちは、イエスさまと分かった時言いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」死を死で終わらせない、イエスさまの福音による救いの約束を信じて、心燃やして生きてまいりたいと思います。