2002年3月24日

「主の憐れみにより」第一コリント 15:3〜8

 メッセージに先立ち、マタイ受難曲39番から特別讃美をいただきました。「わが神よ憐れみたまえ」という曲で、弟子ペテロがイエス様のご受難を前に三度イエス様を否むとすぐに鶏が鳴いた、という出来事の後に歌われるものです。ペテロの自分自身の弱さゆえの悲しみと、十字架にあってそれを赦す主の慰めを彷彿とさせる名曲です。ペテロはその後、復活のイエス様にお会し、裏切り者から殉教者へと変えられていきました。そしてまた、本日の聖書の箇所はクリスチャンを迫害していたパウロによって表された福音の原点ですが、彼もまた、迫害者から伝道者へと変えられた主イエスのご復活の証人でした。

 へブル人への手紙の著者は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と言いました。私も、目に見えるものによって信じる信仰は役に立たないと思います。人間は、奇跡としか思えないような体験をたとえしたとしても、それが信仰を生み出すとは限りません。新約聖書の中で、奇跡は信仰を生み出すためではなく、イエスがキリストであることを証しするために備えられたものです。神による多くの奇跡をもってエジプトの奴隷の家から脱出したイスラエルの人々の度重なる背信の出来事を見ても、人は奇跡を体験しても奇跡に依存した信仰しか持つことができないことが解ります。ゆえに、人は信仰の危機に直面するとしるし(奇跡)を求めるのです。

 さて、イースターの出来事は人の理解を越え、自然の摂理を超えた出来事でした。しかし、同時にそれはイエス様が伝道生活の中で繰り返し語ってこられたことが真実であったことを証明する出来事でもありました。しかし、弟子たちでさえもイエス様が成そうとしておられる救いの業を理解し、信じることはできませんでした。キリストは人々から苦しみを受け、十字架にかかり、三日目に甦るという出来事が、神と人との和解をもたらし、その事実を信じる者には永遠の命が与えられるという約束が現実のものとなるには「事実の確認」が必要でした。受難のイエス様を見捨てて逃げ去った弟子たち、弱虫のペテロ、誰もイエスがキリスト(救い主)であることを信じることができませんでした。しかし、そんな弱い者たちにイエス様は復活後現われ、甦りの事実を示されたのです。信仰とは今はもう見えない言い伝えられてきた福音の事実を信じることなのです。

 そしてまた、復活の出来事は、救いが人間の力によって達成できるのではなく、神の一方的な憐れみと恵みによることを証明する出来事でもありました。パウロは人間の努力による救いの限界をローマ書でこう表現しました。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」この絶望こそが主の憐れみを乞う人間の信仰を呼び起こす罪の自覚なのだと思います。パウロは続けます。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」救いが私たちの行いによってもたらされるのではなく、神の憐れみにより、福音を信じることによって与えられるとは、何と恵みでしょうか。神は神に寄りすがる者に真実な方です。