2002年3月17日

「いちばん偉い人は」マタイ福音書23:1〜12

 「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話になった」と始まる23章から25章まではまるでイエスさまの「山上の説教」(5章〜7章)を思い出させる箇所ですが、その教えには終末的な緊迫感があふれています。そして、その教えの焦点は宗教的偽善に向けられています。つまり、いかにも偉く愛に満ちた人のように見えても実はそれがにせものの信仰であり、見せかけの愛でしかないとき、それは最大の神への冒涜であることをイエスさまは指摘されたのです。おおよそ人は、言行不一致の人の言うことは聞くものではないと言いますが、イエスさまは彼らの言うことは行いなさいと言われました。「教え」そのものは間違いではないのです。しかし、教えの意味するところをどう人に手渡すかが問題になるのです。信仰を持ち、イエスさまの名を掲げる私たちクリスチャンこそ気をつけなければなりません。私たちは「教師」になりたがるからです。「救い」を教えたがるからです。相手よりも高いところに立ち、ともすれば自分以上の信仰深さを相手に求めてしまうことがあるからです。隣人が困難の中にあるとき、状況をわきまえず、み言葉さえ相手に手渡せばそれで安心するところも私たちにはあります。相手の重荷を軽くするどころか、それ以上の負担を信仰の名のゆえに負わせてしまうこともあるのではないでしょうか。

 また、教師は人に重んじられることを無意識に求めてしまう性質があると思います。私も牧師として「先生」などと呼ばれる身分になり、自分ではそのようなつもりはなくても人から丁寧なお取り扱いを受けていくうちにそれが当たり前のように錯覚してしまうことがあります。では、イエスさまの「あなたがたは先生と呼ばれてはならない」とおっしゃる言葉は、私たちが日ごろ用いている敬称を無くすということなのでしょうか?「地上の者を父と呼んではならない」という言葉は子供が父親に対してさえも使ってはならない言葉なのでしょうか?

 イエスさまは十字架に向かわれる時を前にして、神の私たちに対する愛が見せかけではなく、具体的で真実の愛であることを教えられたのです。そして、その愛を知る者たちの他者とのかかわりが言葉の上でも行いの上でも真実であることを求められたのです。パウロはガラテヤ書3章で「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」また、第一コリント12章で「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と言われました。そこには役割の違いや任務の違いはあれ、目指す目標は一つであり、皆が救われることです。

 そのためにお互いに仕える者として、どう呼び合おうとも互いに見せかけの愛ではなく真実の愛をもって仕え合ってまいりたいと思います。。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」仕える者とは、自分に仕えて下さったイエスさまの愛を知っている者のことだと思います。