2002年3月10日

「誇れるもの」コリント信徒への手紙第一1:26〜31

 今年の四月から小中高の各学校で週五日制が実施されます。私は良いことだと思うのですが、世間一般の親たちはむしろ反対だと言う方が多いようです。その理由のもっとも大きなものが「学力の低下」を心配するというものだそうです。日本社会は伝統的に「立身出世」を美徳として、とにかく勉強をし、知識や教養を高めて偉い地位を目指して行くことが当たり前とされてきました。ですから、週にたったの一日休みが増えるだけでも、これだけ親が心配してしまいます。それだけ「勉強させなくちゃ」と思っている親が多いということです。自分に対しても、社会に対しても、「誇れる」人間になってもらいたいと思っているわけです。このことはそんなに大切なことでしょうか。

 聖書には、こういう知識や教養に恵まれ、自分を誇ることができた人たちが何人か描かれています。イエス様に「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねた金持ちの青年(ルカの福音書では議員)や、同じくイエス様に「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」と言ったパリサイ派のニコデモ(彼も議員)も。彼らは二人とも社会的に認められる地位にいた、知識も教養も十分な立派な人でした。その彼らがイエス様を「善い先生」「教師」と敵意を込めて呼びました。しかし、彼らは頭でイエス様を認めていても、いざ、イエス様が彼らの知識では測れないような言葉を発せられた時、理解できずに去って行ってしましました。結局、彼らは自分の知識、自分の基準で判断し、それに合わないイエス様を信じることができなかったのです。つまり自分の知識や教養が逆に邪魔をしてしまったわけです。

 私がバプテスマを受ける前が同じような状態だったことを思い出します。聖書を理解できるまで読もう、そして納得できたら信じようとしていた自分を思い出します。私は何か劇的な出来事をきっかけにクリスチャンになったわけではありません。いつの間にか素直に信じられるようになっていたのです。パウロが聖霊によって目からウロコを落とされたように、バプテスマのヨハネが聖霊によってイエス様をメシアだと知らされたように、私も「聖霊によって」としか言いようのない救われ方だったのです。決して、これだけ聖書を勉強し、理解したから信じられたというものではありませんでした。聖書は「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは神の知恵による」と言います。人は自分の力では決して神を知ることはできないと言うのです。

 聖霊に満たされる時、自分が救われる時というのは、今まで自分が信じてきたこと、してきた努力、身に付けた知識が、ある意味で無駄になる、白紙になる瞬間です。しかし、今まで学んできたことがすべて意味のないものになるかというと、そうではありません。頭のいい人は神様を信じた後も、やっぱり頭がいい人なんです。ただ、それは信じる前の自分とは明らかに変わっているのです。何が変わったかと言うと、「誇るもの」「誇れるもの」が変わっただけなのです。しかし、それが天地がひっくり返るほど大きな違いなのです。

 「神は知恵あるものに恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力あるものに恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました。」とあります。自分が誇れるものなど何一つ持っていない、自分はなんと弱く、おろかな、駄目な人間だろうと思っている人でも、神様は選んでくださいます。いや、そういう人だからこそ神様は用いて下さると聖書は言うのです。そして、キリスト・イエスに結ばれているのだから「主を誇れ」というのです。エレミヤ書九章にも「むしろ誇る者は、このことを誇りなさい。目覚めてわたしを知ることを。」とあります。神を知っていることを誇るのだと神様は言われるのです。

 学力、知識、教養、それらはもちろん大切なことです。学校にはちゃんと行って勉強するべきです。しかし、そこで身に付けた知識や教養で自分を誇ってしまう時、それは本当に活かされる力にはならないのでしょう。「神のおろかさは、人よりも賢く、神の弱さは、人よりも強い」(コリント1、1:25)

 私たちは、誰でも、どんな時でも誇れるものがあるのです。