2002年3月3日

「愛には恐れがなく」ルカによる福音書10:25〜29

 律法の専門家はイエスを試そうとして言いました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか。」そこでイエスさまはこう答えました。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」
 おおよそ専門家というものはその道に精通し、知らないことはないというようなイメージがありますが、特にユダヤ教の律法を学ぶ専門家はいわゆる半端ではない人たちでした。律法に関しては素人であるはずのイエスを試すために問い掛けたはずの彼が、逆にイエスさまから質問され試され、知っていたはずの解っていたはずの永遠の命に至るはずの自分に「欠け」があることを思い知らされるのです。自分は違反を犯したことはないし、とりたてて大きな罪も犯したことはない。そんな自分が永遠の命への切符を取り落としているなどとは思ってみたこともなかったに違いありません。そんな中、イエスさまは善きサマリア人の譬えを用いて彼の律法の理解に対する間違いと彼自身の「欠け」について語られました。

 当時、エルサレムからエリコへの道は険しく、実際そこでは追いはぎが出没していたと言われています。その頃、破壊された神殿を修復するために多くの労働者が雇われ、46年もかけてようやく完成した後、4万人ともいわれる人々が解雇され職を失っていたと言われています。そのような状況下彼らの中で生きるために強盗に身をやつした人も多かったに違いありません。また、譬えの中で追いはぎに襲われた人はどうやら宮もうでの帰り、あるいは祭司の務めを果して「祭司の町」と呼ばれていたエリコへ帰宅途中の人だったようです。半殺しに会った彼の傍を通っていった二人の人はどちらも祭司職の人たちでした。エジプトからイスラエルの人々が帰還したとき、部族ごとに土地が与えられましたが、レビ族だけは祭司職と定められ、神殿での奉仕やユダヤ教の教育にあたるために土地が与えられず、宮へのささげものによって生活は支えられていました。彼らは言わばユダヤ教の教えについての専門家でした。しかし、同僚ともいえる被害者を彼らは見て見ぬふりをして通りすぎて行きました。ところが彼らにとっては軽蔑の対象とされていたサマリヤ人がそこを通りかかり、被害者の手当てをし、ろばに乗せ、いたれりつくせりの親切を施したのです。そこでイエスさまは律法の専門家に聞きました。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

 ユダヤ人にとってサマリヤ人は異教徒で汚れた民と見なされ、愛するどころか、敵であるとさえ思われていました。そんなサマリヤ人と彼の行いをイエスさまは律法の専門家であるその人に判断させたのです。永遠の命を得るために、律法で最も大切な戒め「隣人を自分のように愛する」ことが実際にはどんなことであるかを問われたのです。彼には兄弟を愛することはできても敵であるサマリヤ人を愛することなどできなかったのです。彼の「欠け」とは彼の愛の不完全さでした。イエスは言われました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。・・・だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ5:43-48)」 

 恵みとは神からいただく愛(無条件の贈り物)です。私たちが隣人を愛するために発揮する親切は神の恵みすなわち愛に立っていなければ意味がありません。たとえ全財産を施しても愛がなければ何の益もないとパウロも言いました。人に仕えて生きるとは無邪気な子どものように神の恵みの中に守られてあることを信じ、隣人がたとえ嫌いな人であったとしても惜しみなく愛していくという神業的なことなのです。