2002年2月24日

「苦しいときの・・」詩篇46:2〜4

 心優しく有能なあるベビーシッターが言っていたそうです。「どんなお母さんであっても、やっぱり子どもにはお母さんが一番なのよね」。夜遅く子どもが寝静まったころ迎えにきて、ぐずっている子をどなりつけながら帰る・・・不憫に思い、「じゃ、先生と泊まる?」と聞くと、激しく首を横に振る姿を見てもらした一言だったそうです。子どもにとって親は誰でもいいというわけではありません。どんな親でもやはり、子どもにとっては自分の親が一番です。ひるがえって神さまと私たちの関係を考えてみますと、私たち日本人は特に神さまについて寛容過ぎるように思えます。八百万の神の中から自分の意に叶った神、願いが叶う神を信じていればいいというような風潮があり、それが信教の自由だと誤解しているところがあります。果たして信仰は個人の自由で済まされる問題なのでしょうか?確かに人間を中心に考えればそうかも知れません。しかし、イエスさまの言葉によれば、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネ15:16)」と創造主である神は言われます。神ご自身が私たち一人ひとりのことを主イエスにあって、「あなたはわたしの愛する子」と名指しで求めていてくださるのです。そして、その神が同時に「わたしはあなたの神、主である。」と名乗りを上げてくださっているのです。それは、他の宗教では見られない特徴であり、その神である主が、私たちの試練の時、悩める時、そこに共にいてくださると詩篇は歌うのです。

 紀元前701年、エルサレムはアッシリアの強力な軍隊によって包囲され、セナケリブ王によってまさに滅ぼされようとしていました。その絶望的状況の中、ユダヤの王ヒゼキヤはイスラエルの主なる神に向かって祈りました。するとその時、預言者イザヤによって告げられた神の答えは、神ご自身が戦かわれ、ユダヤに奇跡的な開放をもたらすということでした。果たしてその夜、アッシリアの陣営では18万5千人が打たれ、センナケリブ王は都落ちし暗殺されてしまいます。この出来事は私たちに、生きて働かれている神が共におられることこそ平和と安全の保証であることを確信させます。

「苦しいときの神頼み」とよく言いますが、そんな時こそ私たちは本当の神、私たちを救うことのできる真の神を知る必要があるのです。「神も仏もない」とつぶやくほどの試練に見舞われる時、落ち着いて考えてみなければならないことは、悩みや苦しみの原因は神にではなく人間にある場合が多いということです。神にはいつも私たちの願いや祈りに答えてまわらなければならないという責任はありませんし、私たちに都合の良い神が神であるはずでもないのです。しかし、あえて言うなら、真の神とは私たちを罪から救ってくださり、悩みや苦しみのとき、どのようなときにもいつも共にいてくださる方です。

 詩篇46篇は宗教改革者ルターによる讃美歌267番として知られています。巨大な世界宗教となったカトリック教会に対して聖書のことばという信仰の原点に立って改革を行った彼には想像を絶する苦しみがありました。しかし、彼を助け支えたのは他でもない、聖書のみことばでした。たとえどんなことがあっても真の神が避けどころ(Haven:港、避難所の意、語源はHeaven<天国>と同じ)、砦になってくださるのです。苦しみや悩みを通して出会ってくださろうとしている真の神を知るとき、罪の裁きの避けどころとなってくださった方こそがイエス・キリストであることを知り、私の神であることを知るのです。