2002年2月17日

「弱さの中でこそ」第2コリント12:8〜10

 「頑張って」、私たちがよく日々の生活の中で使う言葉です。日本人にとってのこの励ましの言葉には色々なニュアンスが含まれていると思います。自分以外何も頼れるもののないとき私たちは互いに頑張るしかありません。だからさまざまな思いを込めてこの言葉を使っているのだと思います。また、この世では自分の力で勝利を勝ち取った人たちのことを強い人と言います。さまざまな試練に努力や忍耐をもって立ち向かっている人を見ると励まされるものです。「頑張って、きっとあなたにもできるから」と励まされているのかもしれません。この世では「強く」なければなりません。どんなことにも負けない強い心と精神とを持たなければなりません。それがこの世における人生の勝利への道だからです。

 福音宣教の巨人、使徒パウロも強さの中で自己実現を果した人でした。誰よりも神と神の戒めを守り、神を愛するが故に神の名を汚す者には容赦なく迫害の手を伸ばしました。しかし、復活のイエスさまに出会った時、彼の基準はまったく変えられ、「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。(ピリピ3:5-8)」とさえ言うような人になりました。そして、神の憐れみにより天国の様子さえのぞかせていただく特権に預かった彼は、この世の誰よりも自分自身を誇りとする権利を持った人でした。しかし、神は彼の思い上がる心を打ち砕くために「棘」を与えられました。正確にはそれがどんな病や傷であったかはわかりませんが、神は彼に逃れられない試練と、祈っても応えられない苦しみとを与えられたのです。それは、彼が自分を頼りとせず、ただ神のみを頼りとし、神に負ける者となるためでした。神はパウロに「強く」あること、「自分の力に頼る」ことを捨てなさいと言われるのです。なぜでしょうか?それは、神が神の業を私たちを通してなさるためであり、同時に私たちに神が与えてくださっている力を神の目的のために最大限に発揮するためでもあります。

 英語には「頑張れ」という言葉はありません。強いて言えば"take it easy"や"relax"という言葉かもしれません。力を抜いて気楽にやれよと言うのです。 詩篇に「静まって、わたしこそ神であることを知れ(46:10)」とありますが、人は自分の力に頼るよりも、神の前に安らいで自然体でいられる時が一番強いのではないでしょうか。主なる神はパウロに、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから彼は、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言うのです。何故なら、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(1コリント1:25)」とパウロが言う通りだからです。

 戦後、先進国に追いつき追い越せと頑張ってきた日本のみならず、人間の力を信じ頼りとしてきた世界もまた、岐路に立たされています。これからの世界に求められるのは、「弱さ」の中に現される神の力を信じる信仰だと思います。神の御前に自分の弱さを認め、神にのみより頼む人、その人こそが強い人と呼ばれ、その人は自分が生かされていることを喜び、主にあって自分自身を生きるのです。