2002年2月10日

「タラントを埋める者」マタイ福音書25:14〜30

 私は音楽の教師ですが、3校目では音楽だけでなく美術も教えました。しかし、実は子供の頃から美術が苦手でした。そこで、デッサンの本を買ってきて、一生懸命練習し、実物を丁寧に描く技術を覚えたら、とても楽しくかけるようになったのです。

 音楽でも、楽しくみんなと歌えるレベルには、誰でもなれるだけのタラントが、生まれつきみんなに与えられているのです。走るのが遅い人はたくさんいますが、小学校の徒競走の時からそのように思いこんでいるのではないでしょうか。足の遅い人で、フォームを考えながら走っている人がいるでしょうか?歌の苦手な人で声をどこに当てるか、筋肉をどのように使うか考えながら歌っている人がいるでしょうか?苦手な人は、最初からそれらのことを放棄しているのです。すなわち、自分のタラントを土の中に埋めているのです。それはなぜでしょう?人と比較しているからなのです。

 私たちは人と比較するとき、すなわち、1タラントであれ、何であれ、隣の人より少ないと、それを土に埋めたくなってしまうのです。私たちが与えられているもので、不足するものなど無いのです。それは1タラントかもしれません。5タラントの人から比べれば、確かに5分の1です。しかし、それでも1タラントというのは、実に大きい価値のあるものなのです。「私の恵みはあなたに対して十分である」第2コリントの12章に書かれているとおりです。

 足りないとは、どういうことでしょうか。それは、人と比較した時に足りない。ということだけなのです。そして、そのタラントを土に埋めた時、神様の祝福は私たちを離れていくのであります。

 私が一番最初に担任した生徒Nくんは非常に良い性格でとても素直な生徒でした。しかし、彼は数学英語が全然できませんでした。毎年、中間テスト・期末テストの度に私に怒られていました。そういう学校生活が3年間続いたのです。卒業後、給料をもらった彼は、私にネクタイピンのセットをプレゼントしてくれました。そして、とても楽しそうにたくさんおしゃべりをしてくれたのです。どうしてそんなに彼は変わったのでしょう。いや、そうではなく、それは彼自身の本当の姿で、ただ私が彼を暗くさせていただけなのです。彼の長所は、足が速く体力もあり、性格が良かったので、職場では十分受け入れられていたのです。私たちは、人の欠点、短所を見抜くことができます。何百人という数の全校合唱でみんなが素晴らしい声で上手に歌っているときに、たった3人の歌っていない生徒が見えてしまい、それにいらいらしてしまうのです。

 もし、急に左半身が麻痺して、手が動かなくなったらどうしますか?私たちは左手をリハリビして元に戻そうとするでしょう。しかし、それでも動かなかったら嘆いていないで、右手を強化し、左手を補うようにしなくてはいけません。五体不満足の乙武さんは、あれだけのハンデを背負いながら自分の使える能力をフルに発揮してあれだけ素晴らしい活動をしています。Nくんも、素晴らしい脚力を持っていました。しかし、私はそれを生かさせようとしないで、できないことばかり指摘していたのです。

 できるところをしっかりと伸ばしてやれば、私たちはグングン成長できるのです。それなのに私たちは、自分のタラントを土に埋めるだけではなくて、人のタラントも埋めているのではないでしょうか?

 私たちは自分のタラントを土に埋めるだけではなく、他の人のタラントも土に埋めてしまうことの危険性を考える必要があると思います。

 私たちは神様からあふれるばかりの恵みをいただいています。「私の目に、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と書かれています。私たちの与えられたタラントが1タラントであれ2タラントであれ、十分にそれを生かして、いつの日か主とあいまみえるとき、「忠実なしもべよ」と言われるよう、日々歩んで行きたいものであります。