2002年1月27日

「神のきよさにあずかるために」ヘブル書12:7〜13

 申命記8章は、奴隷の地エジプトを脱出し、約束の地カナンに向かうイスラエルの人たちが何故苦しみに会うのかについて語っています。すなわち、神がご自分の戒めを彼らが守るかどうかを試さすために試練に会わせられたというのです。それだけを読んでみますと、何と神さまはひどい方かとおっしゃる方もいるかと思います。特に今、苦しみのただ中にいらっしゃる方にとっては受け入れがたい説明と言うことができると思います。しかし、言葉は続きます。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」と。

 そして、その後に神に愛される者を神は訓練されること、神を畏れ主の道を歩むことを勧めるめるのです。主の訓練の前には恵みがあり、試練の中には主の守りが必ず伴っていると聖書は約束しています。

 人間の本性の一つには神に対する傲慢さがあると言います。高慢さと言うこともできますが、いずれにせよそれは神のきよさと相対するものです。箴言は3章でそれを「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。」と語り、傲慢を避けることを勧めます。そして、同じように神の懲らしめという出来事は、神がかわいい息子として信じる者たちを訓練してくださっていることに他ならないと教えるのです。

 子どもメッセージで教会のさくら草のお話をしました。一昨年、Fさんからいただいたこぼれ種から育ったさくら草を家内が教会の庭に植えました。1月末、関東では珍しく雪になりました。家内は庭のさくら草の内3つを鉢に移し、建物に中に保護しました。雪で庭のさくら草が全部だめになるのではと心配したからです。雪は本降りになり30cmほど積もりました。さくら草は雪の下敷きでした。そして、しばらくして雪が溶け、春がやって来たとき、元気で立派な花を咲かせたのは外の庭のさくら草の方でした。同じこぼれ種から育った、部屋に保護したさくら草より、寒さという試練に会ったさくら草の方がその試練を通ることで強くなっていたのです。

 (昔の譬えだと思いますが)$5の鋼鉄は、ていてつ蹄鉄にたたき上げると倍の値段になり、針として鍛えると70倍の$350、良質のナイフに加工すれば640倍の$32,000、そして高弾力、高強度の時計のぜんまいに仕上げると5万倍の$2500,000に価値が跳ね上がると言います。同じ鉄という素材がたたき上げ、鍛えると価値が上がるというのです。価値が云々と言うより、弾力、柔軟性、強度が上がるというのが不思議です。へブル書の著者はその訓練の目的について次のように続けます。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」神の神聖、すなわち「きよさ」とは神の謙遜、へりくだりを現します。私たちの罪の性質、傲慢さは全てのものに対して誇るのです。しかし、神のへりくだりは私たちに義の実と平安とをもたらし、私たちに耐える勇気を与えてくださいます。