2002年1月20日

「一羽のすずめさえ」ルカによる福音書12:4〜7

 ある統計により、フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、ヘレン・ケラー、マハトマ・ガンジー、マザー・テレサ、アルベルト・シュバイツアー、マーティン・ルーサー・キングといった全世界的リーダー300人の分析から次のようなことが判明しました。第一に、彼らのうちの25%の人たちが深刻な心理的障害を持っていたということ。そして第二に、彼らのうちの50%の人たちが幼年期に虐待を受けたり貧困な家庭で育ったり、あるいはその両方であったということです。しかし、その調査から導き出された結論は、彼らリーダー達が何かを始めるとき、大切にしたのはスタートラインではなく、ゴール(最後にどこに立っているか)であったということです。彼らの多くは、彼らの境遇や過去をスタートラインとするのではなく、自分が最後にはどこに立っていて、どのような人となっているかということを第一としたと言うのです。

 クリスチャン新聞2月号にホスピスで最後を迎えた國弘さん(56歳)という方の記事が載っていました。末期がんの苦しみよりも、死を目前にした彼の心に迫ったものは「きれいな心が欲しい」ということでした。彼は主イエスにある罪のきよめを受け入れ、洗礼式と、済ませていなかった愛する奥さんとの結婚式を結婚記念祝賀式という形で済ませ、平安の中に天に召されて行きました。國弘さんはこの世での最後に、自分の今の境遇よりも自分をご計画に沿って創造してくださり、死を通過点と変えることのできる方に委ねる信仰に立つことができたのです。

 本日の聖書の箇所は、畏れるべき方を畏れることの大切さを私たちに教えています。神さまは天と地とを創造されたとき、それを造ったまま放置して、自然の法則や摂理、運命に任せられたわけではありません。神さまは、私たちと私たちの人生とに深く関心を持ち、関わり、働いてくださっているのです。つまり、神さまの御手から離れたところで何かが勝手に起きるということは決してないということなのです。神の造られた世界に、偶然や、あるいは私たちがいつも恐れてしまう因縁やたたりといった人間の言い伝えのようなものは無いのです。

 何も恐れないで生きている人は、怖いもの無しかと言うとそうではなく、実にさまざまなものに恐れを感じて生きているのではないでしょうか。病気や怪我、失業の恐怖、能力や地位名誉の失墜、人に受け入れてもらえないことへの恐怖など、人が何かに対して恐れや不安を持っているということは、真の神を畏れることをまだ知らないで生きていることによってもたらされるのではないでしょうか?実にここでイエスさまは、本当の愛なる神を畏れるということを知った人間は神以外のものに何も恐れをいだく必要はないとおっしゃっているのです。パウロは言います。「神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちに下さった(1テモテ1:7)」

 小さなすずめ一羽でさえも(マタイの福音書によれば)神のお許しがなければ地に落ちることはないと主は言われます。また、私たちの髪の毛一本でさえみな神に数えられていると言われます。神の私たちと私たちの身の周りに起きる全ての出来事に対する深い関心、罪に対して無知な私たちを御子を犠牲としてまで赦してくださろうとした驚くべき愛、その神の恵みを知り、御旨に沿って生きることこそ畏れるべき神を畏れて生きることの意味なのです。