2002年1月13日

「完結する人生」2コリント 5:17-21

 一冊の本:「往復書簡:いのちに寄りそって」。在宅ターミナルケア(重度のがん患者の緩和ケアを在宅で行う)に捧げている内藤いづみ医師と批評家の米沢慧さんとの往復する手紙のやりとり。「私はこの2年間、在宅ホスピスケアを仲間と共に実践してきました。どの人も絶望していませんでした。死は誕生の逆である。誕生の後、私たちは赤ちゃんに愛情を注ぐことを飽きることなく毎日繰り返します。ですから「看取り」も同じことなのです。相手の言葉にいつも耳を傾け、側にいてほしい時にはじっと付き添い、好きな物を食べてもらい、体をきれいにし、みんなでその人を囲んで過ごしていく。私たちは「死にゆく人たち」から平凡な日々の営みの一瞬の中に幸せが宿っているのだということを教わるのだと思います。」

 現代は「安らかな死」を身近に感じることが少なくなりました。点滴のラインやチューブに囲まれた施設での最期しか知らない社会が現在なのです。そうした中で、内藤さんは命のほんとうの意味を共有する人々を支援する働きをしているのです。

 患者の手記:「痛みがまだ続いていたころ、友人の一人が「あなたは自分が幸せだと思う時は、どんな時ですか?」と聞いた。・・・私は考えた。そうだ、どこも痛くなくて、どこも苦しくない時。そんな時が私の幸せの時だった。・・・もう現実離れした宇宙のことを考えて自分をごまかしたり、自分より不幸な人と比べて自分を慰めなくても、私は十分幸せだと感じることができる。」

 がんの痛みがコントロールされ、人間本来の理性を取り戻し、命の意味、幸せの意味を考える患者の姿があります。幸せの意味を考える上で、米沢さんが一つのヒントを与えます。それは、現代医療の治療(キュア)を目的とする医療を、往きの医療。これに対して、人は死にゆくものだという立場から考える医療を、帰りの医療。つまり、帰りの医療は、死も生の一部であることを踏まえたケアとしています。人生においても同じだと思います。往きの人生と帰りの人生。往きの人生は、戦いの人生。その目的は、自己実現し、死に打ち勝つ人生。しかし、勝敗は既に決まっており、人は敗れ、疲れ、行き詰まってしまうことが多々あります。それでは、帰りの人生とはなんでしょうか。ここに米沢さんの洞察があります。「ビートたけしのバイク事故後の会見は逸見さんとは逆で、これ以上の手術はしない、闘病はしないで「顔面麻痺」を自然体として受け入れる、だったのです。「顔面麻痺」をいのちの往路の折り返し点とみなして、還りのタレントの道を歩み始めたのです。」つまり「帰りの人生」へは、折り返し点があるのです。ビートたけしさんの場合、芸能生命が危ぶまれる「顔面麻痺」という事実を受容し、帰りの人生へ踏み出したわけです。

 そして、内藤医師の興味深い引用。「鈴木秀子さんの著書では、死が近づいている病人には、元気を取り戻し、あたかも回復したかと思われる時間が訪れること。この時間は「仲良し時間」と呼ばれ、この世を去る準備として人生最期の仕事をするときだとされています。病人がし残したり、言い残したり、したいと思っていたことをなしとげてみせる。それは「自然との一致、自分自身との仲直り、他者との和解という作業」だと説明されています。」つまり、すべての人にこの「仲良し時間」が与えられているのです。これはまさしく神さまからのプレゼントです。聖書の第二コリント5:19「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」の約束通りです。この「仲良し時間」が私たちに、「帰りの人生」への導きを決定づけるものになるのだと思います。「帰りの人生」はまさしく人生の成熟期です。

 内藤さんの引用:「43才の男性患者。がんが再発し、もはや手術も抗がん剤も効果がない段階となりこの方は心を決めました。「これからは1日でも長く、愛する家族とともにいることが人生の目的だ」と。そして私の外来を訪れて、こうおっしゃいました。「最期まで痛みなく過ごさせて下さい。そしてどんな場合でもうそをつかないで下さい。僕が僕の人生を歩むために真実を伝えて下さい。」私は約束を果たすために最善を尽くしました。病状は徐々に進行しました。付き添う妻に「僕は幸せだよ。大丈夫だよ。痛みもなく、こうして家族のことを考えられる。僕は幸せだよ。君に出会えて」と繰り返し伝えました。病床はいつも温かい笑い声に包まれていました。LOL(レングス・オブ・ライフ)の尺度からみたら、不幸なはずの方が「僕は幸せだよ」と言い続けた命のパワーを、私はホスピスケアのQOL(クオリティ・オブ・ライフ)と考えています。そして不思議なことに、このQOLは残された者に生きるエネルギーを与えてくださるのです。」

 生きている者も、死にゆくものも、その状態にかかわらず全ての人がエネルギーを与えられる。これが「帰りの人生」ではないでしょうか。死に打ち勝ち、3日目に復活なされたイエス様の大いなる祝福に他ならないと思います。「往きの人生から帰りの人生」への移行は、実は、私たちが自分の罪を告白し、バプテスマを受け、イエス様により頼んだ新しい性質を身にまとって、神のご計画の道を歩むことと、完全に一致していきます。私たちの古い性質のままの人生、これを往きの人生、あるいは戦う人生、とすれば、イエス様を知ってからの新しい性質をまとって歩む人生、これを帰りの人生、あるいは、受容する人生と符号するのです。第二コリント 5:17「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」との御言葉どおりなのです。

 イエス様を知れば、もう戦わなくてよいのです。受容する人生、無条件の愛に包まれた人生となるのです。すべての人の人生は例外なく、往きの人生と帰りの人生を生き、完結し、すべて人は神様の祝福の中にあります。そして、人の幸せは、帰りの人生の中でその祝福に感謝できる心を持つ時に感じことができます。どうか、常に生きて働くイエス様をすべての中心において日々過ごすことができますように。