2002年1月6日

「はばかりなく大胆に」へブル人への手紙4:14〜16

 神学者のアレクサンダー・ホワイト博士は、書店から新刊として送られてくる「ローマ人への手紙」の注解書を受け取ると真っ先に開く箇所があるそうです。それは7章です。使徒パウロの弱さと苦しみについての書簡を一般論とし、パウロ自身のこととして解釈していない本は、「残念ながらお断りします。一生懸命働いて手にしたお金を架空の話を読むために使おうとは思いません。」というメモと一緒に送り返すそうです。パウロはコリント第一の手紙15章で「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です(14)・・・・この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です(19)」と言いました。クリスチャンがもし、福音や聖書の言葉を架空の出来事として捕らえているとしたら、そんな哀れなことはありません。架空のことを信じ、それに生涯をかけることほど愚かなことはないからです。

 私たちの身の回りには「この人は頼りになる」という人がいます。たとえば会社であれば、社長とか部長とか、「この人がいれば安心」と言える人。家庭でいえば「このお父さんがいるから大丈夫」とか、毎日の生活を営む上でその存在があることで安心していられることがあるものです。イスラエルの人々にとっても自分たちの祭司、しかもその代表である大祭司の存在は日々の生活を平安に過ごす上で無くてはならない存在でした。大祭司が神と人々との仲介者となってくださり、罪のとりなしをしてくださるからこそ、彼らは安心して生活できたわけです。しかし、へブル書の著者は、罪を犯すたびごとに神に執り成し、犠牲を捧げて神をなだめてくれる頼りがいのある大祭司以上の存在が今は私たちにある、と言うのです。人となられた神が、偉大な大祭司となり、私たちと同じ苦しみ悲しみを通り、同じ辛酸を舐め、それでも罪を犯さず、ただ一度十字架にかかり私たちの罪を贖う犠牲の小羊となってくださったことを彼は架空の出来事としてではなく、現実の出来事として言い表したのです。そして、尚、彼はその信仰を互いにしっかりと保とうではないかと信じる者たちに向かって励ますのです。それは、半信半疑のまま信仰生活を送る信者が増えてきたからです。中には様々な理由により信仰から離れてしまう人々もいたからなのです。

 昨年全世界を揺るがした同時多発テロ事件やそれに続く戦争、国内の経済問題、社会不安、政治の混乱、狂牛病問題、さまざまな凶悪事件などの出来事は私たちの心を憂いと失望に向けさせてしまいました。しかし、だからこそ今私たちの心の目を向けるべきは、どんな出来事が起ころうとも動じもせず全てを掌握し、私たちの弱さに同情し、全ての人を救いに導くために今も生きて働いておられる主なる神さまと神さまの私たちに対するご計画です。著者はその神に大胆に近づくことの大切さを語るのです。「大胆に」という言葉には本来「はっきりと言う」という意味があります。

 何はばかることなく、自由に、確信をもって神に近づく権利を私たちはイエス様ゆえに与えられているのです。なぜ私たちは神さまに近づく必要があるのか?それは、神さまが私たちに本当に必要なものを全て、既に用意し、与えようと待ってくださっており、あとは私たちがそれを受け取るだけになっているからです。足りないのは私たちが求め、たたき、探そうとする大胆な信仰のみです。今年、私たちに必要なものは、神ご自身に近づく大胆さ、神のご計画を求める大胆さです。主は惜しみなく与えてくださいます。