2002年1月1日

「心の出エジプト」マタイによる福音書7:7〜12

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

 私たちの心の中には相反する二つの思いがあります。一つは「よし、やってみよう!」と思う心と、そんな気持ちに水を差すような「どうせやっても無駄だ」と思う心です。ところがどうも私たち人間の傾向として、何かに向かうときに「どうせやっても無駄だ」という思いの方が勝ってしまうことが多いようです。もちろん、人によりけりですが、たとえ極めて積極的な人でも、悪条件が重なるとどうしても消極的に物事を捉えてしまうようになるのが自然な私たちの姿なのかも知れません。主イエスさまは今日の箇所に至るまで、まとまった形で群集や弟子達に教えを説かれました。それらどの教えも今まで彼らが聞いていたものとは違っていました。そして、その教えはとても実現可能とは思えないほどに難しいイエスさまからの要求でした。その教えはあくまで理想であって人には守れるものではない、守れないのが当たり前と考えた方が自然とさえ誰もが思えるような教えでした。

 しかし、説教も終わりに近づき、イエスさまは今日のみ言葉を語られたのです。「求めなさい・・探しなさい・・門をたたきなさい・・」と。それは、イエスさまからの、自分の思いに沈んで行く私たちに対する励ましです。私たちが本来はどんな存在として創られたかということを私たちに思い出させるための励ましです。人間はどうせ弱く、正しいことなどできない存在だし、だからこそ悪いことをしてそこから抜け出せないでいる人の方が真実に近いような気がする、などとあなたは自分を納得させてはいないでしょうか?しかし、イエスさまは、私たち人間は「よし、やってみよう!」と立ち上がる性質を持った存在として神さまによって創られたのだと言われるのです。「求めたって無駄さ、探したって見つからないさ、叩いたって開けちゃもらえないさ」と沈む私たちの心に、神さまが私たちに下さろうとしているものを求める祈りをしてみなさい。いや、あなたにはそれができるし、できるようにあなたは創られているのだとおっしゃるのです。

 黄金律と呼ばれる聖書の中でも極めて有名な言葉も、主の思いを知るための祈りなくして行えるものではありません。とかく、人間関係の崩れは、相手への一方的な思い込みや期待、そして誤解から起こるものだからです。ハワイ在住の若いアーティスト、浅井力也君(脳に障害を持って生まれた)について先日聞きました。彼が小さな頃、食べ物をそしゃく咀嚼できない彼にお母さんは口移しで食事を与えていたそうです。しかし、それが原因で力也君に虫歯ができたことを知ったお母さんは自分の歯を全部抜いて入れ歯にしてまで食事を与え続けたそうです。

 神さまは私たちに最善を尽くしてくださらないはずはないのです。本当に自分に必要なもの、無くてはならぬものは、神さまが用意してくださっています。それを求めさせない私たちの心の暗闇、自我に縛られた私たちの心、神への不信から抜け出して、本来の私たちに与えられた神を求める性質を取り戻して行きたいものです。この新しい年、神さまが私たちと私たちの教会とに準備してくださっている最も良いものを受けるため、あきらめず失望せずに主の思いを祈り求めて参りたいと思います。