「ホテル・リライト」 | ||
†第四夜† |
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俺は、作家という覚束ない仕事を生業としている。 幸い、11年前、この国で最も権威のある文学賞を受賞し、それ以降はまさに空飛ぶ鳥も落とす勢いで、今日までこの仕事を続けてこられている。 その日、締切日までに仕上げなくてはならない仕事を片付けた俺は、いつもの休日と同じように、お気に入りのクラシックを聞きながら愛車を飛ばしていた。しかし、突然の眩暈で休憩を余儀なくされた俺は、近くにあった洋館へと足を踏み入れた。 ふと、弟の声が聞こえた。ここは弟が入院していたあの病院の病室だ。どうやら俺はまた昔の夢を見ているようだ。 体が弱いせいで、俺よりも酷い仕打ちを受けてきたというのに、弟はなんと優しい事か。それに比べて俺はなんと醜い事か。しかし、弟よ、俺はもう戻る事は出来ない。例えこの先何があっても戻る事が出来ないのだ。ごめん、その言葉が俺が弟にかけた最後の言葉だった。
”『ホテル・リライト』へようこそ。どう?ここは良いところでしょう?ここの住人は、みな穏やかで優しい方たちばかり。彼らはここに 自分たちの意思で住み着いた。ここでなら 嬉しい気持ちだけで生きてゆける。だから、あなたもずっと ここにいればいいの” どこからか聞こえてきた囁き声に目を覚まし、俺はベットから静かに身を起こした。黒で染められた部屋の扉の辺りが、ぽぅと明るく染め上げられていく。手に持ったガラスの燭台の上で揺らめくキャンドルの灯りが、あの無言の黒衣の少女の顔を艶かしく映していた。黒衣の少女は静かに俺のベット脇まで歩いてきた。俺は、ベットの端に腰を掛けて黒衣の少女を待った。 黒衣の少女はただ静かに赤い瞳で俺を見下ろしていた。俺はその赤い瞳に得体の知れない恐怖を感じながらも、負けじと静かに少女の顔を見上げた。ざわわ、と黒衣の少女の後ろの闇が蠢いたように見えた。黒衣の少女の唇は相変わらず真一文字にきつく結ばれていたが、蠢き続ける闇から、あの何度も聞いた囁きが、俺の脳へと直接響いてきた。 ”ここの住人は皆、囚われの身。他に行ける場所もないから大広間に集まっては、みんなで鋭いナイフを手に取り、闘おうとするのに 結局 “理想”という名の獣を殺してしまえる人は誰一人いなかった。あなたもそうでしょ?” これまで強がり続けてきた体が、自然と震え出し、その振るえはやがて大きくなった。 俺は部屋の扉を乱暴に開け放つと、より一層闇が濃くなった廊下の床を乱暴に蹴って走り続けた。息苦しい廊下はさらに息苦しく、俺の心臓は早鐘を打ち、急に今までに無い仕事量を要求された肺は、早くも仕事をを放棄しようとしていた。足をもつれさせながら、階段ホールに出る。一気に階段を駆け下りようとしたのが災いして、途中転倒し、無様に階段を数段転げ落ちたが、体の痛みを感じる感覚は麻痺していたのか、俺は痛みを感じる事なくすぐに起き上がると、残りの階段を一気に駆け下りた。 ”何がそんなに悲しいのですか?” 頭の後ろに響いた囁き声で俺は慌てて振り返った。そこには、あの黒衣の少女が表情の無い顔で佇んでいた。黒衣の少女の背中に控える闇がごそごそと蠢き、俺に囁く。 ”あなたは迷い込んだのではありません。あなたは運命に導かれてここへいらっしゃったのです。落ち着いて自分の運命を受け入れてください。しかし、ここはホテルです。好きな時にチェックアウトが出来ます。あなたがお客さまを辞めるのでしたら、いつでもチェックアウトが出来ます” 俺は、膝まつきながら体を黒衣の少女へ向き直して、泣きながらチェックアウトさせてくれ、と懇願した。もう体裁も何もあったものじゃない。俺は黒衣の少女を見上げて、まるで神様に祈りを捧げるかのように懇願した。初めて見た時から抱いていたはずだ。表情の無い顔に。真一文字に結んだ口元に。そして、赤い瞳に。黒衣の少女を形作る総てに恐怖を抱いていたのだ。 しばらくの沈黙の後、黒衣の少女が黙って頷くと、遠くから、どこからか、礼拝堂の鐘の音が響いてきた。俺は弱弱しく立ち上がり、振り返る。無くなっていた筈の、あの巨大な木製の両開きの扉が、目の前に現れた。どういう仕掛けか、などという事はこの際どうでもよかった。ただ、そこに扉がある事が、俺にとってはこのうえもない喜びだった。これで、帰れるのだ。新しい人生に踏み出していけるのだから。 木製の扉に両手の平を当てた。温かみを感じる事はなくひんやりとした感覚が両手を襲った。両腕に力を込めた。扉が重々しい音を立てた。その音とは別の音、俺の頭の後ろで、あの男とも女とも判別つけがたい囁き声が響いてきた。 ”ご利用ありがとうございました。お帰りの際には、向日葵畑の赤レンガの道をずっと歩いてください。その道を走らず歩き続けていけば、やがて白い光があなたを包み込むでしょう。ただし。その白い光に包まれるまで、何があっても絶対に振り返らないで下さい。絶対に。またのお越しを心よりお待ち致しております。” 俺は、向日葵に挟まれた赤レンガの道を歩いた。昼間はあれほど綺麗に見えた向日葵も、真夜中の闇に包まれた今見ると、まるで妖怪がそこかしこに立っているようで気味が悪かった。この場から1刻でも早く逃げ出したくて走り出しそうになるが、それでも囁き声の忠告に従って、走りたい欲望を必死に殺して、歩いた。来る時はほんの数分で辿りつけた赤レンガの道は、遥か彼方まで続いており、終わりが見えなかった。それでも、俺は歩き続けた。ただひたすら、歩く。歩く。歩く。どこまで歩いたのか、気になって振り返ろうとしたが、その度に、振り返らないで下さい、という囁き声が脳裏に響いた。何分、何十分、何時間、歩いたのか、鉛のように重く感じる足を引きずりながらも、俺は歩き続けた。 どこからか、生暖かい風が吹いた。その風に弄ばれて向日葵畑がざわめいた。 体の後ろからはなおも罵声が聞こえてくる。あんたなんか生まれてこなければよかった。あんたは人間じゃない家畜なんだから生意気言ったら承知しないよ。それと似たような言葉をいくつも、いくつも、絶え間なく浴びせられながらも、俺はぐっと唇をかみ締めて歩く。歩く。歩く。 罵声がようやく遠ざかった。ほっとしたはずみで後ろを振り返りそうになったが、慌てて少し振り向いた顔をそこで止め、前に向き直った。 また、生暖かい風が吹いた。向日葵が今度はライバルの作家連中の姿を成した。俺の成功に対する妬み、羨望、何かしらスキャンダルを起こし、文壇の権威から転がり落ちる事への渇望、作家連中のさまざまな剥き出しの感情が、向日葵を通して俺の耳をかきむしった。 俺はこんなにもさまざまな業を背負って生きていたのだ。その業の総ては俺に対する憎しみばかりだ。皆、酷く下卑た表情で俺に罵声を浴びせてくる。きっと、俺も今までこんな表情をしていたに違いない。こんな醜い顔をしていたに違いない。何と恥ずかしい事か。こんな表情はもう二度としまい。憎悪の連鎖を1つでも多く断ち切り、1人でも多くの人からこんな醜い表情を取り除いてあげたい。ああ。そういえば、弟がよく言っていたあの言葉はなんであったか。老子のあの言葉をよく弟は口にしていたが、何という言葉だったか。さっきまで覚えていたのに、何という言葉だったか。 その言葉を思い出そうとしながら、足をもう一歩、さらにもう一歩、前へ、前へ、進めて行った。思い出すことに専念したせいか、あの嫌らしい言葉が俺の耳から遠く離れていった。 カメラのフラッシュを目の前でたかれた時のように、急に目の前が真っ白くなった。何時間かかったのか、ようやく終着点まで歩きついた。夜明けが近いのか、辺りはうっすらと明るくなっていた。終ぞ老子の言葉は思い出せなかったが、何かの拍子にふっと思い出すこともあるだろう。今は、とにかく帰る事が先決だ。 怨みに報ゆるに徳をもってす。 背中に聞こえた声に俺は、囁き声の忠告もこれまでの苦労も忘れて振り返ってしまった。 朝日に照らされた弟が一瞬見えた気がしたが、しかしそこには、あの黒衣の少女がいつもと変わらぬ無表情な顔で佇んでいた。 目の前にはホテル・リライト。そして、遠くから、どこからか、礼拝堂の鐘の音が響いてきた。
(終わり) |
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