「ホテル・リライト」

†第四夜†

 俺は、作家という覚束ない仕事を生業としている

 幸い、11年前、この国で最も権威のある文学賞を受賞し、それ以降はまさに空飛ぶ鳥も落とす勢いで、今日までこの仕事を続けてこられている。

 その日、締切日までに仕上げなくてはならない仕事を片付けた俺は、いつもの休日と同じように、お気に入りのクラシックを聞きながら愛車を飛ばしていた。しかし、突然の眩暈で休憩を余儀なくされた俺は、近くにあった洋館へと足を踏み入れた。
 洋館は、”リライト”というホテルだった。俺は、豪華な玄関ホールで、赤い瞳と間一文字に結んだ口元が印象的な黒いドレスを身に纏った美少女に、2階にあるゲストルームへと案内された。
 俺は、夏であるにもかかわらず、柔らかな日差しが差し込むその部屋のベットの上で、微睡み、その微睡の中、過ぎ去った時間をぼんやりと見ていた。黒衣の少女により、夢から現実へと引き戻された俺は、広大な食堂ホールで食事をとった。この世のものとは思えないその味に、俺は、はっとした。俺は作家だ。味覚で感動を味わえるのなら、視覚でも味わわせる事は出来るはずだ。俺は、ずっと探してきた生きる意味を見つけた気がした。その日、俺は幸福な気持ちに包まれて、黒々とした闇が広がる部屋で眠りについた。

 ふと、弟の声が聞こえた。ここは弟が入院していたあの病院の病室だ。どうやら俺はまた昔の夢を見ているようだ。
 部屋に吹き込んだ風でカーテンが揺れた。そのカーテンを避けて数枚の桜の花びらが舞い込んできた。春の穏やかな午後。弟が天に召されたあの日だ。
 弟は病床の上で静かに寝息をたてていた。安らかに眠る弟を見るたびに不安に駆られ、俺は何度も弟に声をかけた。その度に弟は重いまぶたを開け、俺を安心させるかのように微笑んだ。
 その日の夜、弟の容態が急変した。別室に呼ばれた俺は、医者から最後の別れをしてきてください、と言われた。何を馬鹿な事を言っているのだ。この藪医者が。そう思った。思いたかった。しかし、病床の上の弟の顔からは生気が失せ、代わりに死の予感に覆われていた。
 弟が懸命に腕を伸ばした。俺はその手を握り、ぎゅっと力強く握り締めた。
 弟はにこり、と微笑んだ後、あんちゃんは優しいんだから復讐なんて考えちゃダメだよ、そう言って涙を落とした。俺はどんな表情をしただろう。俺の復讐は着々と順調に進んでおり、今まさに有終の美を飾る寸前だった。今さら後には戻れなかったのだ。その俺の戸惑いが表情に出ていたのか。それとも悲しみで打ち消されていたのか。
 続けて弟は、怨みに報ゆるに徳をもってす、という老子の言葉を忘れないで、あんちゃんだけは幸せになってくれ、そう言って静かに瞼を降ろした。

 体が弱いせいで、俺よりも酷い仕打ちを受けてきたというのに、弟はなんと優しい事か。それに比べて俺はなんと醜い事か。しかし、弟よ、俺はもう戻る事は出来ない。例えこの先何があっても戻る事が出来ないのだ。ごめん、その言葉が俺が弟にかけた最後の言葉だった。 

 

 ”『ホテル・リライト』へようこそ。どう?ここは良いところでしょう?ここの住人は、みな穏やかで優しい方たちばかり。彼らはここに 自分たちの意思で住み着いた。ここでなら 嬉しい気持ちだけで生きてゆける。だから、あなたもずっと ここにいればいいの”

 どこからか聞こえてきた囁き声に目を覚まし、俺はベットから静かに身を起こした。黒で染められた部屋の扉の辺りが、ぽぅと明るく染め上げられていく。手に持ったガラスの燭台の上で揺らめくキャンドルの灯りが、あの無言の黒衣の少女の顔を艶かしく映していた。黒衣の少女は静かに俺のベット脇まで歩いてきた。俺は、ベットの端に腰を掛けて黒衣の少女を待った。

 黒衣の少女はただ静かに赤い瞳で俺を見下ろしていた。俺はその赤い瞳に得体の知れない恐怖を感じながらも、負けじと静かに少女の顔を見上げた。ざわわ、と黒衣の少女の後ろの闇が蠢いたように見えた。黒衣の少女の唇は相変わらず真一文字にきつく結ばれていたが、蠢き続ける闇から、あの何度も聞いた囁きが、俺の脳へと直接響いてきた。

 ”ここの住人は皆、囚われの身。他に行ける場所もないから大広間に集まっては、みんなで鋭いナイフを手に取り、闘おうとするのに 結局 “理想”という名の獣を殺してしまえる人は誰一人いなかった。あなたもそうでしょ?”

 これまで強がり続けてきた体が、自然と震え出し、その振るえはやがて大きくなった。
 黒衣の少女は、まるで救いを差し出すかのように、俺に手を差し伸べてきた。その真っ白な女の指先に触れると、俺は俺で居られなくなる、誰か名前も知らない人間に俺を支配される、そんな得体の知れない恐怖が突然、俺を襲った。俺はその真っ白な手をかいくぐり、洋館の出口へ向かって必死に走り出した。
 何故、走っているのだ。俺に残された人生は世捨て人のような人生だったはずだ。誰からも興味を持たれる事無く、人知れず死んでいく事が俺の希望だったはずだ。あの真っ白な指先に触れていれば、俺の希望はきっと叶ったはずだ。俺のこの行動は俺の理想と矛盾しているはずだ。しかし、俺は気がついたんだ。気がつけたんだ。理想を持つ事が悪い事なのか?俺は作家として生きて、復讐の罪滅ぼしをする。俺が書いた作品で、多くの人が不幸の気持ちから抜け出し、幸せな気持ちを掴むのだ。多くの人に生きる勇気を与える事が俺のこれから生きていく存在理由であり、それが俺の理想だ。
 人に幸せを分け与えるためには俺自身も幸せにならなければならない。結婚をして、子供をつくって、人と同じような家庭を築いて、人と同じような幸せを手に入れるのだ。
 そうだ。そんな当たり前の幸せ、それこそが、俺が少年の頃から抱いてきた本当の希望であり理想だったではないか。それを、俺は復讐心で蓋をし、気が付かないようにしてきたのだ。
 今、その事にようやく気が付けたのだ。俺は生きて生きて、誰のためでもない、俺のために、俺自身の幸せを手に掴み、その先に多くの人たちを幸せにするために生きるのだ。ようやく、俺は自分自身の本当の気持ちと向き合っていく勇気が持てたのだ。
 だから、ここにいつまでも留まる理由は無い。ここは、ホテル・リライトはどこか、何かおかしい。人の気持ちを内側から抉り出し、醜い自分の本当の姿を見せ付けられたかと思えば、今度は逆に未来へ生きていく希望や夢や理想を与えてくれる。こんな場所がこの世界であり得るだろうか?ここはおかしい。ここから逃げなくては、俺は戻れなくなる。

 俺は部屋の扉を乱暴に開け放つと、より一層闇が濃くなった廊下の床を乱暴に蹴って走り続けた。息苦しい廊下はさらに息苦しく、俺の心臓は早鐘を打ち、急に今までに無い仕事量を要求された肺は、早くも仕事をを放棄しようとしていた。足をもつれさせながら、階段ホールに出る。一気に階段を駆け下りようとしたのが災いして、途中転倒し、無様に階段を数段転げ落ちたが、体の痛みを感じる感覚は麻痺していたのか、俺は痛みを感じる事なくすぐに起き上がると、残りの階段を一気に駆け下りた。
 玄関ホールから外に出ようとするが、洋館に来た時はあったはずの、外界に繋がる巨大で温かみを感じたあの木製の扉が忽然と姿を消し、壁に塗り変わっていた。俺は、その壁を恨めしげに何度も何度も叩いた。何を言っているの俺自身分からない言葉を何度もわめいた。意味を成さない言葉の羅列がいくつもいくつも俺の口から発せられたが、しかし、現状は何も変わる事は無く、そして、俺はその場で膝をついた。絶望から来る悔しさか、涙が自然と流れ落ちた。少年の頃に味わった絶望。その時は、復讐心で悲しみを悲しみとして感じる事は無かった。しかし、復讐を遂げた俺は、ごまかす物が無くなった俺は、生きていく事に希望を持った俺は、こんなにも弱く脆い生き物だったのだ。

”何がそんなに悲しいのですか?”

 頭の後ろに響いた囁き声で俺は慌てて振り返った。そこには、あの黒衣の少女が表情の無い顔で佇んでいた。黒衣の少女の背中に控える闇がごそごそと蠢き、俺に囁く。

 ”あなたは迷い込んだのではありません。あなたは運命に導かれてここへいらっしゃったのです。落ち着いて自分の運命を受け入れてください。しかし、ここはホテルです。好きな時にチェックアウトが出来ます。あなたがお客さまを辞めるのでしたら、いつでもチェックアウトが出来ます”

 俺は、膝まつきながら体を黒衣の少女へ向き直して、泣きながらチェックアウトさせてくれ、と懇願した。もう体裁も何もあったものじゃない。俺は黒衣の少女を見上げて、まるで神様に祈りを捧げるかのように懇願した。初めて見た時から抱いていたはずだ。表情の無い顔に。真一文字に結んだ口元に。そして、赤い瞳に。黒衣の少女を形作る総てに恐怖を抱いていたのだ。
 子供の頃、親戚連中に散々虐げられ、時には折檻が過ぎて死ぬような思いも味わったが、その事に対して恐怖と感じなかったこの俺が、今、本当の恐怖の前でだらしなく涙を流し、鼻水を垂れ流し、俺の年齢の半分程の歳の少女に、床に頭をこすりつけながら、懇願していた。靴を舐めろ、と言うならば、いくらでも舐めてやる。そう思える程、俺はこの黒衣の少女に恐怖をしていた。初めて見た時から怖いと感じていた。しかし、つまらない強がりからその気持ちを無視し続けた。怖い。怖い。怖い。帰れない。帰る事が出来ない。こんな恐怖がどの世界に存在するというのだ。怖い。怖い。怖い。
 涙と鼻水と涎でだらしなく汚れた顔で、俺は恐る恐る黒衣の少女を見上げた。
 黒衣の少女は俺の無様な姿をただただ赤い瞳で静かに見下ろしていた。

 しばらくの沈黙の後、黒衣の少女が黙って頷くと、遠くから、どこからか、礼拝堂の鐘の音が響いてきた。俺は弱弱しく立ち上がり、振り返る。無くなっていた筈の、あの巨大な木製の両開きの扉が、目の前に現れた。どういう仕掛けか、などという事はこの際どうでもよかった。ただ、そこに扉がある事が、俺にとってはこのうえもない喜びだった。これで、帰れるのだ。新しい人生に踏み出していけるのだから。

 木製の扉に両手の平を当てた。温かみを感じる事はなくひんやりとした感覚が両手を襲った。両腕に力を込めた。扉が重々しい音を立てた。その音とは別の音、俺の頭の後ろで、あの男とも女とも判別つけがたい囁き声が響いてきた。

 ”ご利用ありがとうございました。お帰りの際には、向日葵畑の赤レンガの道をずっと歩いてください。その道を走らず歩き続けていけば、やがて白い光があなたを包み込むでしょう。ただし。その白い光に包まれるまで、何があっても絶対に振り返らないで下さい。絶対に。またのお越しを心よりお待ち致しております。”

 俺は、向日葵に挟まれた赤レンガの道を歩いた。昼間はあれほど綺麗に見えた向日葵も、真夜中の闇に包まれた今見ると、まるで妖怪がそこかしこに立っているようで気味が悪かった。この場から1刻でも早く逃げ出したくて走り出しそうになるが、それでも囁き声の忠告に従って、走りたい欲望を必死に殺して、歩いた。来る時はほんの数分で辿りつけた赤レンガの道は、遥か彼方まで続いており、終わりが見えなかった。それでも、俺は歩き続けた。ただひたすら、歩く。歩く。歩く。どこまで歩いたのか、気になって振り返ろうとしたが、その度に、振り返らないで下さい、という囁き声が脳裏に響いた。何分、何十分、何時間、歩いたのか、鉛のように重く感じる足を引きずりながらも、俺は歩き続けた。

 どこからか、生暖かい風が吹いた。その風に弄ばれて向日葵畑がざわめいた。
 その瞬間、俺は自分の目がおかしくなってしまったのではないか、と思えた。何故ならば、人の背程はあるだろう向日葵が、突然、姿を変えたのだ。赤レンガの道の両脇に立ち並ぶ向日葵が、いつの間にか人の形を成し、俺を見下ろしていた。1つ1つ見覚えがある顔が並んでいた。俺の復讐のため、今や社会的信頼が失墜し、中には路上生活を余儀なくされた人間もいる、親戚連中の顔が並んでいた。顔たちは俺に対して、恨み辛みを汚い言葉で訴えてくる。耳が汚れ、そこから虫がわいてくるような、そんな汚い言葉の中を俺は歩く。走ってはいけない、その囁きを忠実に守って、俺は歩く。歩く。歩く。

 体の後ろからはなおも罵声が聞こえてくる。あんたなんか生まれてこなければよかった。あんたは人間じゃない家畜なんだから生意気言ったら承知しないよ。それと似たような言葉をいくつも、いくつも、絶え間なく浴びせられながらも、俺はぐっと唇をかみ締めて歩く。歩く。歩く。

 罵声がようやく遠ざかった。ほっとしたはずみで後ろを振り返りそうになったが、慌てて少し振り向いた顔をそこで止め、前に向き直った。

 また、生暖かい風が吹いた。向日葵が今度はライバルの作家連中の姿を成した。俺の成功に対する妬み、羨望、何かしらスキャンダルを起こし、文壇の権威から転がり落ちる事への渇望、作家連中のさまざまな剥き出しの感情が、向日葵を通して俺の耳をかきむしった。

 俺はこんなにもさまざまな業を背負って生きていたのだ。その業の総ては俺に対する憎しみばかりだ。皆、酷く下卑た表情で俺に罵声を浴びせてくる。きっと、俺も今までこんな表情をしていたに違いない。こんな醜い顔をしていたに違いない。何と恥ずかしい事か。こんな表情はもう二度としまい。憎悪の連鎖を1つでも多く断ち切り、1人でも多くの人からこんな醜い表情を取り除いてあげたい。ああ。そういえば、弟がよく言っていたあの言葉はなんであったか。老子のあの言葉をよく弟は口にしていたが、何という言葉だったか。さっきまで覚えていたのに、何という言葉だったか。

 その言葉を思い出そうとしながら、足をもう一歩、さらにもう一歩、前へ、前へ、進めて行った。思い出すことに専念したせいか、あの嫌らしい言葉が俺の耳から遠く離れていった。

 カメラのフラッシュを目の前でたかれた時のように、急に目の前が真っ白くなった。何時間かかったのか、ようやく終着点まで歩きついた。夜明けが近いのか、辺りはうっすらと明るくなっていた。終ぞ老子の言葉は思い出せなかったが、何かの拍子にふっと思い出すこともあるだろう。今は、とにかく帰る事が先決だ。

 怨みに報ゆるに徳をもってす。

 背中に聞こえた声に俺は、囁き声の忠告もこれまでの苦労も忘れて振り返ってしまった。

 朝日に照らされた弟が一瞬見えた気がしたが、しかしそこには、あの黒衣の少女がいつもと変わらぬ無表情な顔で佇んでいた。
 赤い瞳で俺をじっとみつめながら、そっと、黒衣の少女は白い手を差し出してきた。
 俺はその時確信した。
 もう、戻れない、と。

 目の前にはホテル・リライト。そして、遠くから、どこからか、礼拝堂の鐘の音が響いてきた。

 

(終わり)

壁紙