「ホテル・リライト」 | ||
†第三夜† |
||
俺は、作家という覚束ない仕事を生業としている。 幸い、11年前、この国で最も権威のある文学賞を受賞し、それ以降はまさに空飛ぶ鳥も落とす勢いで、今日までこの仕事を続けてこられている。 その日、締切日までに仕上げなくてはならない仕事を片付けた俺は、いつもの休日と同じように、愛車の中でお気に入りのクラシックを聞きながら愛車を飛ばしていた。しかし、突然の眩暈で休憩を余儀なくされた俺は、近くにあった洋館へと足を踏み入れた。 どれだけ微睡んでいただろう。俺は、この部屋に入る時に聞いた、あの頭の後ろで囁くような、男とも女とも判別しがたい声で目が覚めた。 『”ホテル・リライト”へようこそ。ここは素敵な処。集まってくる人たちはみな穏やかで優しい方たちばかり。あなたも穏やかで優しい人でしょ?なら、ここの住人になれるよ。あなたならきっと、ここで上手くやっていけるよ。だから、あなたもずっと ここにいればいいの。』 頭の中にはまだその囁き声が響いていた。俺は、いつの間にか陽は落ち、黒々とした闇が広がる部屋の天井をただなんとなしに眺めていた。最初、天井に装飾された百合のレリーフは、この闇の中ではっきりと識別できなかったが、段々と目が慣れてきたのか、まるで紙を炙って浮かび上がる絵のように、天井の百合のレリーフが徐々に浮かび上がってきた。 しかし、どうにもこの”ホテル・リライト”に居ると気持ちが弱くなるというか、調子が狂う。あいつに相談してみるか、と考えてみたものの、誰にも頼らず生きてきたこの俺が、急に誰かを頼ろうと考えるなんてどうかしている。この先何が待っていたっていいではないか。俺のこれまでの半生を振り返れば、多少の困難など困難などではない。困難を乗り越えるために社会的立場だとか文壇の権威だとかを捨てる事になろうとも、そんなものは生きていくうえでたいして役には立たない唾棄しても一向に構わないものだ。俺は俺だ。これまで徒手空拳で生きてきたのだ。誰かに頼ろうだなんてどうかしていた。この先の人生なんてものもどうでもいい。成るようにしか成るまい。生きていく事に本気で飽きたら、昔の有名な作家のように入水自殺でもしてみるのもいいだろう。俺が死んで邪魔者が居なくなったと本心では思いながらも、カメラの前では殊勝にも泣いてみせる作家連中の顔が浮かぶようだ。そんな作家連中の心の真実を匂わせるような作品を書斎に残して死ぬのも面白いかもしれない。 次の作品はこれをテーマにしてみるか。一見読んだだけでは分からないが、どうやら主人公は俺らしく、主人公だと思われる俺の才能のせいでなかなか世に名前が売れない作家連中の嫉妬をそれとなく話の中に織り込む事によって、人間の心裡の裏を炙り出す話も面白いかもしれない。実名は公表しないが、あれこれ憶測を立てて騒ぐのが好きなマスコミの事だ。きっと、この人物は実在するあの作家で、こちらの人物はあの作家で、などと不毛な詮索をする事だろう。そんな様々な憶測に踊らされる人間たちを想像して、俺は唇の端を吊り上げた。 俺のそんな暗い心に光が灯ったのか。不意に闇の中で灯りが揺らめいた。俺は目を細めながらその方向へ顔を向けた。手に持ったガラスの燭台の上でゆらゆらと揺れるキャンドルの灯りが、ベットのすぐ脇に人影を映していた。キャンドルの灯りは、黒衣の少女の端整な顔を艶かしく映していた。黒衣の少女が先ほどと同じように感情の無い表情で俺のベットの傍らに立って、赤い瞳で俺の顔を見下ろしていた。俺は、背筋に冷たいものを感じながら、2、3度頭を軽く振って、心に淀んだ僅かな恐怖を振り払い、ベットから抜け出して立ち上がった。それを見届けると、黒衣の少女は踵を返して、部屋の扉の前へと歩いて行った。俺は何かの暗示にかけられたように、黙って黒衣の少女の背中に従った。 息苦しい廊下を抜け、階段ホールを1階へと降りる。玄関ホールに戻り、そこからホールの奥へと黒衣の少女は無言で足を運んで行く。俺は、疑う事も忘れて、その背中が導く場所へと足を進めて行った。 案内された場所は、この空間に終わりがないのではないか、と思えてしまう程の広大な食堂ホールだった。食堂ホールでは、老若男女が入り混じって賑々しく食事が催されていた。黒衣の少女は俺をテーブルまで導くと、椅子を引いて俺を座らせてくれた。黒衣の少女が持っていたガラスの燭台をテーブルの中央に置くと、白いテーブルクロスと相まってシャンデリアとはまた違った暖かい光が周りを包んだ。 黒衣の少女は椅子に座った俺の後ろで無言で佇んでいる。どうやら、食事の注文を待っているようだ。俺は、食事は適当でいいから何か良質のワインがあったらそれを頼みたい、と言うと、黒衣の少女は表情も変えずに首を横に振った。これだけ広大な食堂を持つ豪華なホテルであるにも関わらず酒は置いていないと言う。じゃあ食事を適当に、と言うと、こちらも首を横に振られて断られた。どうやら具体的な注文が欲しいらしい。酒が飲めないなら、さっさと食事を済ませて部屋へと戻りたい。作家の癖か。どうも人が多い所は落ち着かない。俺は、単純で簡単に出来る、スパゲティーカルボナーラを頼むと、初めて首を縦に振って、黒衣の少女はその先に厨房があるのか、俺の後ろから離れていった。 料理が運ばれてくるまでの間、手持ち無沙汰の俺は、何となくこの広すぎる食堂ホールを眺めていた。友人同士、恋人同士、はたまた家族旅行か、あちこちで談笑する声が聞こえてくる。考えてみれば、俺は家族とこうして過ごした事は無かった。両親を早くに亡くし、弟は病気だったため、旅行なんて出来るはずも無かった。もしかすると、俺は復讐を考える事によって、人が普通に持ちえる幸せへの嫉妬心を押し殺していたのかもしれない。 ほどなくして、俺の注文したカルボナーラが運ばれてきた。黒衣の少女が俺の前に無言で皿を置くと、卵とクリームのソースから立ち上る優しい香りと一緒に、黒胡椒のピリリと刺激的な香りが俺の鼻腔をくすぐった。 たかが食事で、これ程までの幸福を味わったのは生まれて初めてだった。俺はこれまで、金にまかせて一流のレストランで、たくさんの美食家が絶賛する食事を味わった事があるが、こんな気持ちになったのは初めてだ。ここのシェフは間違い無く、当代無比の腕を持っているだろう。、それが、こんな田舎町のホテルの一介のシェフで埋もれたままになっているとは、なんと惜しい事か。 俺は、他にもメニューがあるだろうに、どうしてももう一度味わいたくて、同じメニューを頼んだ。たかが食事だと俺は思っていたが、食事でこれ程気持ちに活力を与えてくれるのだ。これはとんだ侮りだった。たかが食事で人の心をこんなにも満たせてくれるとは夢にも考ていなかった。 食事を終えた後、また黒衣の少女の案内で部屋へと戻った。気持ちがよかったからか、不思議とあの薄暗い2階の廊下を息苦しいとは感じる事は無く、むしろ、ダンスの一つでも踊ってやりたい気分だった。 このホテルに来たのはまったくの偶然ではあったが、これ程までに満たされた気持ちになれるとは思わなかった。物心ついた頃から、俺たち兄弟を見捨てた親戚連中に対する復讐心を心深くに燃え滾らせてきた俺にとって、生きる事に目的を持ち、生きる事を渇望した事は無かった。明日、ここをチェックアウトする時にはまったく違う新しい俺になって出て行くだろう。そんな揺ぎ無い確信を俺は心に抱いた。 娯楽施設がまったくないこの部屋では、ベットに潜り込んで朝が来るまで目を瞑って待つ事しか出来ない。ノートパソコンとまでは言わないが、せめて筆記用具と何かメモ用紙くらいは欲しいところだ。心の中に湧き上がってくる様々な文字を総て吐き出してしまわないと気が狂ってしまいそうだ。これが興奮というものか。こんなにも気持ちが昂ぶるのは生まれて初めてだ。この国で一番権威のある文学賞を受賞した時も、陶朱猗頓の富を築いた時にもこんなに気持ちが昂ぶる事は無かった。今のこの気持ちの昂ぶりではきっと眠りになど落ちる事はないだろうと、そう思ってベットに潜り込んだのだが、体がよっぽど疲れているのか、さっきまで昼寝を満喫していたにも関わらず、俺はこれまでには無い安らかな眠り落ちていった。
(続く) |
||