「ホテル・リライト」

†第二夜†

 俺は、作家という覚束ない仕事を生業としている

 幸い、11年前、この国で最も権威のある文学賞を受賞し、それ以降はまさに空飛ぶ鳥も落とす勢いで、今日までこの仕事を続けてこられている。

 その日、締切日までに仕上げなくてはならない仕事を片付けた俺は、愛車の中でお気に入りのクラシックを聞きながらドライブを楽しんでいた。しかし、突然襲った眩暈で、俺は休憩を余儀なくされた。幸い、すぐ近くには洋館が建っていた。今まで何度もその道を愛車で走っていたにもかかわらず、一度たりとも目にした事が無かった建物だったが、俺は何かに導かれるように、その洋館の扉を開けた。
 洋館に入った俺を迎えたのは、神々しい玄関ホールと、黒いドレスを身に纏い、赤い瞳と間一文字に結んだ口元が印象的な無表情な少女だった。
 俺は、その黒衣の少女の案内に素直に従い、豪華な階段ホールの螺旋階段を少女の華奢な肩上で揺れる緑の黒髪を眺めながら上り、息苦しい2階の廊下を通り、黒衣の少女の赤い瞳に導かれるように、その赤い瞳が見つめる先の扉を開け、部屋の中へと足を踏み入れた。

 ゲストルームは、質素ではあったが、壁紙、床、天井、調度品、暖炉、ベットに使われている色の配色は見事で、全体的に調和が図られていた。テラスへ繋がる窓から差し込んでくる夏の光も柔らかく、あの薄暗い廊下とは違って、心落ち着く空間が造られていた。

 テラスへと繋がる5メートル程の高さの窓を開けて、俺は青空の下へと出てみた。夏とは思えない程の涼やかな風が全身を駆けて行った。それと同時に、今までの苦悩も総て吹き飛ばされていくような、そんな清清しい感覚も覚えた。

 テラスから見えるホテルの中庭では、人々が軽やかに踊っていた。汗を流す事を厭わず踊る人々は、ある者は想い出を心に刻み込むために、ある者は総てを忘れるために踊っているように、俺の目には見えた。

 テラスから離れて部屋へ戻ると、俺をここまで案内してきたあの黒衣の少女の姿は消え失せていた。そういえば、ここに宿泊していいものかどうか、肝心な事を聞くのを忘れてしまったが、部屋に案内してくれたという事は、滞在してよい、という事であろうか。
 ふと、自分自身に失笑してしまった。滞在してもよい、だなんて、随分手前勝手に良い方向で物事を考えるものだ。常に人を疑ってかかっていた俺が、だ。しかし、たまには外泊も悪くは無い。この俺が、こんなに前向きな考え方が出来るのなら、ドライブの他に旅行を趣味の中に加えれば、また違った人生を見つける事が出来るかもしれない。

 俺は疲れた体を休めようと、靴を履いたままベットへ寝転がった。天井の模様は階段ホールで見た百合模様のレリーフに似ていた。目を瞑ると、何故か弟の声が聞こえたような気がした。その弟の声に導かれるように、俺は微睡の中、今まで自分の心に固く封をしてきた昔の事を思い出していた。

 俺が作家を志したのは、文学が好きだったから、などというありきたりな動機ではない。
 子供の頃、俺と弟を残して、両親は事故死した。俺たち幼い兄弟は両親の親戚中をたらい回しにされた。
 親戚連中は、口汚い言葉で罵る者や、容赦なく虐待を加える者ばかりだった。体の弱い弟は俺よりももっと酷い仕打ちを受けた。俺たち兄弟は、どこへ行っても人として扱われた事は無く、犬畜生と同様の扱いを受けた。結局、俺たち兄弟は親戚連中の手から逃げ出し、施設へと駆け込んだ。

 そんな幼少時代を送った俺は、俺たち兄弟を虐げた親戚連中を見返すために、そして、立派な設備がある病院で、弟の病気の治療を施すため大金を欲した。普通のサラリーマンになり、順調に出世して大金を手にする方法もあったが、不確かな計画であるし、何より時間がかかりすぎる。自らの力のみでのし上がり、世間に広く俺の名を知らしめ、そして大金を手にする、その方法を俺は子供の頃から模索していた。

 高校生の頃、文芸部に所属する友人から原稿を頼まれた事があった。
 俺が、これまでの人生の中で友人と呼べる人間は彼しかいなかった。俺は心にそびえ立つ程高い壁を築き、心の領域に何人たりとも近づけた事は彼に出会うまで無かった。彼は、俺のそんな心の壁をあっさりと乗り越えると、ずけずけと俺の心の中へ浸入し、うるさく何度も俺の心をノックし続けた。結局、俺の方が根負けをして、彼と友好を結ぶようになった。彼との友情は、それまでに味わった事が無い新鮮な気持ちを俺に与えてくれた。しかし、それでも俺の心の中に棲む復讐という名の魔物を黙らせる事は出来なかった。
 そんな俺の無二の友人からの頼みではあるが、それまで小説などというものは書いた事が無かったし、俺にそんな文才は無いと思っていた。悪いなと心のどこかで思いながら、俺は友人の頼みを一旦は断った。しかし、友人は、堅苦しい文学作品の中に、気軽に読める作品を入れたい、という思惑があり、ぜひ書いて欲しい、という熱意に押されて、無精無精、頼みを引き受けた。この時の俺は、まだこの出来事が、俺の人生を大きく変える転換期になるとは思っていなかった。
 文芸部の連中は、将来本気でプロの作家を目指す者も数多くいて、実際、我が高校の文芸部は、これまでに何人もの作家を輩出してきたという実績がある。プロの作家を目指すなら、遊びでおかしな作品を書こうなどという酔狂な人間がいないのも頷ける。そこで、お鉢が回ってきたのが部外者の俺というわけだが、何故か出版社の編集者の目を射る結果となった作品は、遊びで書いた俺の短編小説だった。

 俺は、その編集者に才能がある、と言われたが、そうは言っても作家になりたい、などと考えた事も無い俺にとっては、その言葉をどこまで信じていいのか、半信半疑ではあった。しかし、その言葉が真実ならば、幼少の頃より心深く温めていた復讐を成し遂げる事が出来る。弟の体も心配だった。今通わせている病院からは、もっと設備が充実した大きな病院への転院を何度も強く勧められていたが、経済的なゆとりは無く、日に日にやせ細っていく弟を見る度に無力な自分に対して頭が熱くなった。

 もし、自分に作家としての才能があるならば、その才能に賭けるしかない。時間は無かった。俺は高校を卒業すると同時に創作活動に取り掛かった。弟が入院する病院へ向かうバスの中で、弟の病室で、施設の自室など、どこに居ても原稿用紙とペンを持ち、眠る間も食事の時間も惜しんで創作活動を続け、そして半年の制作期間を経て一つの作品を仕上げた。その作品が、この国で最も権威のある賞を獲得し、埋もれ木に花が咲いた。俺は5億という賞金を手に入れると同時に、当時、弱冠19歳だった俺は、世間の耳目をも集めた。俺は施設を出て、この国の首都でマンションを買った。弟は設備が充実した病院へ転院させた。私生活に大きな変動はあったが、俺は創作活動の手を緩める事は無かった。21歳までに30本もの短、長編小説を書き上げ、その総てがテレビや映画になり、本はミリオンセラーとなった。俺は若手作家の旗手として揺るぎ無い地位を手に入れた。

 どうせすぐ作家として立ち行かなくなる、と冷淡な目で見ていた親戚連中は、俺のこの活躍を目の当たりにし、慌てて手の平を返して、俺たち兄弟に偽善の手を差し伸べてきた。俺は、この偽善に対し、表面上は喜んでその手を取った。
 マスコミに対しては、これまで親戚連中が、俺たち兄弟を放っておいたのは、幼い兄弟であったし、ましてや弟は病気を患っており、その事が経済的に重くのしかかってしまう事は、幼かったとはいえ子供心には充分理解出来たし、親戚の方々にご迷惑をかける事が心苦しく、俺たち兄弟はお互い納得して自らの意思で施設に入った、と談話を発表し、世間の哀憐を誘った。
 しかし、これはあくまでも表面上での事であって、裏ではこれまでに築き上げてきた人脈を総動員して、俺が後ろで糸を引いていると分からないように、巧妙に罠を散りばめて、親戚連中の社会的信頼を失墜させた。親戚連中の五臓を絞るような姿を見て、俺は1人、愉悦で唇を密かに歪めた。

 俺は、少年の頃に抱え込んだ不幸の負債を24歳で返済し終えた。作家として華々しく文壇にデビューしてから僅か5年。その短い時間の中で、俺は少年の頃からの鬱憤を総て吐き出した。親戚連中は俺が仕掛けた罠により、ある事無い事をマスコミにより派手に書きたてられて、今では世間から隠れるようにひっそりと暮らす事を余儀なくされている。その事で俺が被害を被る事は無く、むしろ、世間からは、そんな人間に対しても優しく接する事が出来る好青年として見られていた。総ては俺の計算通りであった。ただ一つ、誤算だったのが、弟の死であった。大病院に転院させたものの時期が遅かった。弟は一度も枕を上げる事無く、安らかにこの世を去った。親戚連中がどれだけ苦しもうが、涙一つ見せなかった俺が、この時は両目から数え切れない程の涙の粒を落とした。マスコミのカメラの前でも、俺は恥も外聞も無く涙にむせた。

 この年、俺は首都のマンションを引き払い、首都から車で2時間ほどかかる田舎街に200坪の土地を購入し、そこに1人で住むには大きすぎる邸宅を建てた。元々、人込みが嫌いな性格だったが、弟の看病のため首都のマンションで暮らしてきた。しかし、弟がこの世を去り、首都に居続ける理由が無くなった俺は迷わず田舎へ逃げ込んだ。
 今、俺は新築したばかりの田舎の邸宅で、毎月5本の連載小説を書きながら暮らしている。金は有り余るほどある。今年、俺は30歳を迎えたが、仮に後50年生きるとして、その50年の間にどれだけ銅鑼を打っても使い切れない程の金がある。親戚連中に対する復讐は終わった。弟も死んだ。俺の生きる目的も死んだ。少年の頃にあった、あのたぎるような熱情は6年前に消え失せていた。だらだらと続けてきた作家活動も今の連載を最後に終わらせようと考えている。後、何年生きられるかは分からない。財産も何かの理由で失うかもしれない。そしたら元の貧乏生活に戻ればいいだけだ。路上生活になろうが構わない。馬鹿なマスコミを動かし、馬鹿な世間を煽動して、目的を達する事が出来た。後は、誰からも興味を持たれる事なく、ひっそりと死ねればいい。

 『”ホテル・リライト”へようこそ。ここは素敵な処。集まってくる人たちはみな穏やかで優しい方たちばかり。あなたも穏やかで優しい人でしょ?なら、ここの住人になれるよ。あなたならきっと、ここで上手くやっていけるよ。だから、あなたもずっと ここにいればいいの。』

(続く)

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