「ホテル・リライト」

†第一夜†

 俺は、作家という覚束ない仕事を生業としている

 幸い、11年前、この国で最も権威のある文学賞を受賞し、それ以降はまさに空飛ぶ鳥も落とす勢いで、今日までこの仕事を続けてこられている。

 今の時代は便利なもので、原稿を輸送するのではなく、インターネットを通じてメールで送付する事が一般的になっている。1ヶ月の大半を田舎町の邸宅に拵えた書斎で暮らしている俺ではあるが、その月に書かなければならない作品を全部メールし終えた後の僅か数日の休日は、お気に入りのクラシックを聞きながら愛車を走らせて過ごす事が専らだった。仕事明けのその日、俺は愛車のステアリングを握り、青空で入道雲が威張っている夏の空を、車のフロントガラスから見上げながら、ぼんやりとこれから先、俺は何のために生き続けるのかと、自問していた。

 開け放たれた車窓から入る涼やかな風が髪を撫でる。風が運んできたコリタス草の甘い香りがほのかに車内に漂よう。

 信号も無い田舎道。車の通りもまばらで、ドライブをするにはすこぶる快適だった。が、不意に白い光が目の前を襲った。俺は慌ててブレーキを踏み、車を急停車させ、眉間を親指の間接部分で押さえた。不意に見えたあの白い光はなんだったのか? そう考えながら瞼を開いてみたが、外は相変わらず夏の空が広がっているばかりだった。
 疲れているのか、と自分の心の中で結論をつけ、どこか体を休められそうな所はないかと、周りを見回す。と、視界の先に、太陽の光に負けないくらい眩しい灯りが見えた。走らせ続けた車を灯りの下に停めて、その灯りの奥に備え付けられていた20段ほどの石段を何の疑いも無く登った。そこには一面咲き乱れる向日葵畑があり、その畑の間には赤レンガの道が造られていた。俺は、何かに導かれるように、その赤レンガの道を歩き進んだ。

 10分程歩き続けると、向日葵が途切れ、その先で姿を見せたのは、優雅に佇む大きな洋館だった。
 瞬間、俺の脳裏に疑問がよぎった。今、車で通ってきた道は、何度も走った事がある道だ。これだけ大きな洋館があれば、今まで気が付かなかった事がおかしい。それにあの灯り。何か文字が書いてあったような気がしたが、あまりにも眩しくて判読出来なかったのか? 何と書いてあったのか皆目思い出せなかった。
 しかし、そんなものが道路脇にあれば、嫌でも目立つし興味をそそられるだろうに、何故、今日まで気が付かなかったのだろうか。俺が仕事に追われている間に新しく出来たのか? いや。そうだとしても、これだけ大きな洋館だ。建設には時間がかかるだろうし、建設作業をしていれば気が付いてもおかしくなかったはずだ。

 一体、ここはどこだ? この世のものではないような、そんな不思議な気がする。はたしてここはユメか、それともウツツか。

 遠くから、どこからか、礼拝堂の鐘の音が響いてきた。ここで躊躇していても仕方が無い。俺は、洋館の正面扉へと続く、5段の石段を登り、数メートルはあるだろう、おそろしく大きく、質素ではあるがどこか懐かしい温かみを両手に感じる木製の扉を、俺は押し開いた。

 両開きの扉を開けて、真っ先に俺の目に飛び込んできた玄関ホールは、豪華の一言に尽きた。
 吹き抜けになっている天井できらめくシャンデリア。床は大理石の上に赤絨毯が敷かれていた。その赤絨毯の先、玄関ホールの右手には明るく華やいだ階段ホールへと繋がっていた。螺旋状に続く階段ホールの吹き抜けを支える列柱は、ギリシャ風の丸柱で、すそ回りは見事な百合のレリーフが施されていた。木製の手すりは温かさと懐かしさを醸し出し、階段ホールの天井では天使が描かれたステンドグラスが輝いていた。

 俺は、これまで豪華な建物は数多く見てきた。この玄関ホールによく似た建物も見てきた。しかし、それらの建物と決定的に違うのは、この空間の絶対的な存在感。訪れる者を圧倒すると同時に優しく包み込むような玄関ホール。これだけ見事な建築物がはたしてこの世に存在しえるのだろうか?

 いつからそこに居たのか。キャンドルの灯火が開けたままになっていた扉から吹き込んだ風で揺らいだ。目の前には黒いドレスを身に纏った女性が、ガラスで出来た燭台を手に持って無言で佇んでいた。年の頃は16、17歳くらいだろうか? 肩にかかるくらいで切り揃えられた黒い髪。端整な顔立ちの中の目は切れ長で、赤い瞳がどこか魔性的な雰囲気を漂わせていた。燃え滾るような赤い瞳とは違い、真一文字に結ばれた口元が感情の欠落を想像させたが、それらを差し引いてもとびきりの美少女だ。身に纏う何の装飾も施されていない黒いドレスは、どこのブランドのものか分からないが、その布地は豪華すぎず、かといって質素すぎもせず、少女によく似合っていた。

 爪先から頭の上までを舐めるように見ていた俺を、少女は表情も変えず、ただ俺の顔を赤い瞳で正視していた。途端にバツが悪くなった俺は、俺よりも半分ほどの歳の少女に軽く頭を下げた。
 作家の癖というやつだろうか。俺は初対面の人間に対して舐めるように視線をはわせ観察する癖がある。そのせいで、ほとんどの人間が俺に対して、失礼な人間だという第一印象を持つらしいが、別段、無理して人に好かれようなどとは俺は思わない。嫌いたくば勝手に嫌ってくれて結構だ、というのが俺の考え方だ。そんな俺が、この黒衣の少女にかくもあっさり頭を下げるとは。可笑しくなって、俺は俺自身を心の中であざ笑った。
 そんな事を考えているなどとは、黒衣の少女は知る由もないだろう。しばらく無言で見詰めあった後、黒衣の少女は表情を変えずに赤い瞳をそらし、階段ホールへと歩き出した。俺は、黒衣の少女に誘われるように、その背中に従った。後ろに並んで気が付いた事だが、黒衣の少女は俺が思っていたよりも小さく、俺の胸の辺りまでしか身長が無い。140〜150センチといったところか。

 俺は、黒衣の少女の細い肩の上でダンスをする黒髪を眺めながら、螺旋階段を登った。
 2階は玄関ホールの神々しい雰囲気とは違い薄暗く、背筋に冷たいものを感じながら黒衣の少女の背中を追う。
 薄暗い廊下の先は、どこまで続いているのか分からず、廊下の両脇には同じ木製の扉がいくつも同じ間隔で続いていた。外光を取り入れる窓もない。息苦しくて天井を見上げた。灯りが奥に向かって同じ間隔で続いていた。
 やがて、黒衣の少女はいくつもある同じ木製の扉の前で足を止めた。黒衣の少女はこちらを瞬間振り返り、また視線を木製の扉へと戻した。その時、黒髪の間からちらりと垣間見えた赤い瞳が、俺をこの部屋へ入るよう導いていた。

 薄暗い廊下の奥から誰かの囁きが聞こえた。

 『ようこそ、”ホテル・リライト”へ。ここは素敵な処。集まってくる人たちはみな穏やかで優しい方たちばかり。有り余るほどの数多い部屋をご用意して、どんな季節でもあなた様のお越しをお待ちしております。』

 その声を頭の後ろに感じながら、俺は部屋へと入った。

(続く)

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