「親愛なるお爺ちゃんへ。」

 

 あの衝撃から半月ほど経ちました。私は今頃になってその事を受け入れ始めました。本来、もっと早い段階で私の心情を綴ろうと思っていたのですが、何分心の整理がつかず今頃になってしまった事をまずお詫びいたします。

 しかし、今でも上手く心境を伝えられるかと言われればまだ難しく、その為、1人の主人公を創作し、彼に私の心境を述べる代役を担ってもらう事にしました。拙い文章ですが、役者でありミュージシャンであり、そしてコメディアンであった天国にいる彼にどうしてもこの気持ちを伝えたく文章を起こしました。私の気持ちが届くといいな、という気持ちを込めて。

 

 3月21日。その日私は仕事のために日曜日を返上して都内を訪れていた。
 今、わたしが抱えている大きいプロジェクトがいよいよ最終段階に入り、さらに綿密に最後の調整を進めるために、お客様のところへ数時間かけてわざわざ足を運ぶ次第となった。

 会議は滞りなく進み、予定通りにお昼少し過ぎには終了した。私はこのままお暇するはずであったが、先方がわざわざ昼食を含めた宴席を設けてくれたために、このまま帰るわけにもいかなくなり、仕方がなく付き合うこととなった。ここで無下に断って先方に不快な印象を与えればいままでの苦労が水泡に帰す。サラリーマンの辛いところだ。

 数時間後ようやく開放された私は、腕時計を見る。これから社に戻り、また仕事に取り掛からなければならないのだが、随分と遅くなってしまった。私は茜色に染まった空を見上げるゆとりもなく駅へ向ってせわしく足を動かした。

 新幹線の切符を買い、駅のホームへエスカレーターで降りる。珈琲を買うべくホームにある売店へと向かった私はそこで信じられないものを目にした。

 それはスポーツ新聞の見出しだった。見出しには大きく、『いかりや長介さん死去』と書かれてあった。嘘だろう。私はそう思った。昨日も深夜まで仕事をこなし、家に帰り、風呂に入っただけで私は新幹線に飛び乗った。そんな生活が続いているせいか多少世間のニュースには疎かった。癌であった事は知っていたが、まさかそこまで状態が悪化していたとは予想だにしていなかった。しかし、他数紙の新聞も大きく取り上げている。私はその中の一紙を取り上げると、珈琲と一緒にそれを買い、新幹線へ乗り込んだ。

 席へ落ち着き、私は珈琲のプルタブを爪で引っかくように開けて一口含んで、タバコに火をつけた。普段ならばカバンから小説本を取り出して、目的の駅へ着くまで一人の世界に没頭するはずだった。仕事柄、出張の多い私は、そうやって電車の中の暇な時間を潰してきた。今日も同じようにカバンの中には小説を忍ばせている。都内に来る時にも読んでいた小説だ。しかし、私はそんな小説の存在も忘れて、新聞を広げた。改めて新聞の見出しを見る。先ほどと変わらない見出しがそこにはあった。恐る恐る内容を読む。『3月20日午後3時半。いかりや長介氏死去』。私は一つ大きく息を吐いて天井を見上げた。

 私といかりや長介氏こと長さんとは何の関係も無い。血の繋がりなど当然無く、会ったことすらない。それなのにまるで肉親を亡くした、そんな気持ちになるのはなぜであろうか。

 やがて、新幹線が動き出す。私は窓枠に肘を突き立てて頬杖をつき、窓の向こうの吹き飛んでいく茜色の風景をぼんやりと眺めながら子供の頃の事を考えていた。

 私の家庭は、両親の喧嘩がいつも絶えない、そんな重苦しい空気が立ち込めている家庭だった。しかし、週に一度だけ、土曜日の夜8時だけは違っていた。

 『8時だヨ!全員集合!!』

 長さんのその声を合図に、両親はいがみ合いをやめ、テレビに釘付けになった。重苦しい空気はどこかへ霧散し、家庭の中は笑い声で溢れていた。私にとって、この時間は週に1度のご褒美だった。私と父、そして母。みな腹を抱えて笑い合った。

 普段、昭和の男らしく厳格な父。その父もお風呂で『いい湯だな』を歌うときは優しかった。私はそれが嬉しくて父と一緒に歌った。母がお風呂の曇りガラスの向こうで、近所迷惑になるから、と苦笑いをしていた。私にとってドリフの面々はまるで魔法使いのようだった。彼らの魔法で誰もが羨む暖かい家庭を、瞬間ではあるが、私は感じていた。

 ドリフは学校でも話題になった。月曜日の朝は必ず、『この間の全員集合でさ』という会話から話は始まった。

 物真似をする子供も多かった、中でも人気を博したのは『加藤』と『志村』だった。長さんは、というとまるで人気が無かった。役柄であろう。いつも怖いイメージがあったからだ。私はたいして物真似が上手くない。だから『加藤』や『志村』の物真似は出来なかった。彼らの物真似をしても受けないし、数多くいる物真似の中の1人として片付けられてしまうからだ。それならば、と私が真似た人物が”子供たちの嫌われ者”の長さんだった。

 私の狙い通り、私の物真似は受けた。
 まず、朝、教室に入る時に、おもいきっり『オイッス!』と叫ぶ事から始まる。授業の合間にも私は真似た。帰ってきたテストの答案用紙を見て、『だめだこりゃ』と言ってみたり、先生から答えを求められて窮した時、『次いってみよう』など、長さんの物まねを連発した。結果、私には『いかりや』という名誉あるあだ名がつけられた。

 私の影響か。クラスで長さんの物真似をする子供が俄かに増えた。しかし、私は他の物真似長さんには負けなかった。人一倍長さんのコントを研究している、という自負が私に自信を与えてくれた。それが行動になって現れた。あそこで『加藤』や『志村』の物真似をしているグループがいればそこへ行って突っ込み、こっちで物真似をしているグループがいればそこへ行って突っ込んだ。やりすぎと言われても私は手加減はしなかった。「バカだね。お前は」と言ってよくクラスの子供をひっぱたいた。

 クラスでドリフの物真似コントをする時は、それぞれのキャラで一番上手い人間が選出された。私は必ず長さん役として選出された。授業指導用の定規を使って、時代劇のコントをする時は、最後はきまって、みんなからボコボコに殴られた。体は痛かったが、私自身、長さんになりきっていたせいか、下手に手を抜かれて、笑いが取れないほうが重大事だった。だから仲間には手加減はするな、と言ってあった。そのせいで何度か保健室に行くはめになったのだが、それも今となってはいい思い出だ。

 そんな長さんになりきっていた私の前にとんでもなく強力なライバルが現れた。それが『ひょうきん族』派閥だった。当初はクラスで数名の小さな派閥だった。しかし、当時『全員集合』はPTAなどの団体から、『下品』『教育上よろしく無い番組』と散々叩かれ、徐々にその人気が傾きかけていた。意図的に子供に『全員集合』を見せない家庭も増え始ていた。その影響か、クラスの中の『全員集合』派閥だった人間が翻意し、『ひょうきん族』派閥に寝返る事態も頻繁に起こ始まっていた。

 今ならば録画してしまえば済む問題だし、それに私はこれでも一端の大人である。相手の言い分をじっくり聞き、認められる所は素直に認められるだけの度量があると思っている。しかし、当時は、ビデオなんて代物はまだ一般家庭には広く普及していなかったし、それに子供だった。頭の中では分かっていても、それを素直に認める事が出来ない。変な意地を張ってしまう。それが子供だ。

 『ひょうきん族』が面白い事は私も分かっていた。CMの合間や歌の時間に、親に怒られるのも厭わずにチャンネルを回した(当時はリモコンなんて代物も無かった)。つい、『ひょうきん族』に見入ってしまいそうになった事も何度もあった。しかし、私はクラスでは長さんである。クラスの『全員集合』派閥のリーダーである。『ひょうきん族』がどれだけ面白かろうとそれを認めるわけにはいかなかった。

 やがて、クラスの勢力地図は逆転した。私の『全員集合』派閥は数を大分減らし、今残っている仲間も明日にはどちらについているのか分からない状況になっていた。『加藤』や『志村』の物真似をする子供には、頭がおかしいんじゃないの? と最近まで笑っていた子供に言われるようになり、私の長さんにいたっては、生意気! と言われて苛めの槍玉に挙げられてしまう始末になってしまった。それでも私は物真似を辞めなかった。クラスで孤立しようとも私は長さんの物真似を辞める事はなかった。子供の変な意地と、そしてなによりも、『全員集合』派閥のリーダー役として、私はどんなに辛くてもそれが長さんを真似る者の宿命であるかのように耐え続けた。

 そんな私の闘いは、85年、番組が終了した後も続いた。長さんを真似続けた事によって、怖い人、厳しい人、そんなイメージが私には定着していたからだ。私が長さんを卒業出来たのは、文字通り、小学校を卒業してからだった。

 小学校を卒業と同時に私の両親は離婚をした。まるで、ドリフの魔法が解けたかのように。

 『全員集合』終了後、長さんは役者としてテレビやマスコミに登場する機会が圧倒的に多くなった。今の10代の方々は恐らく長さんは役者、というイメージが強いと思うが、私たちの世代の人間は、長さんが役を演じている、その事が奇異な事であった。どうしても『全員集合』のイメージが払拭出来ない。真面目な役柄を演じていても、そろそろ金ダライが落ちてくるのかな? なんて不埒な事を考えてしまう。

 長さんが演じた数ある役の中で、私は『踊る大捜査線』の『和久さん』役が一番好きだった。
 この和久さん役で私の長さんの見る目は大きく変わり、同時に長さんに対する興味がふつふつと蘇ってきた。

 思えば。この和久さん役というのはいかりや長介、そのものであったのではないだろうか?
 『全員集合』の頃の長さんは、ドリフのリーダーとしてあれだけ個性的なメンバーをまとめ、番組をより面白くしていかなければならない重責を背負っていた。時にはメンバーを殴った事もあった、と言われているが、それも総てリーダーとしての責任からの行為であったのだろう。そういった裏事情はともかく、テレビ画面で見る長さんは、お母さん役や先生役といった”怖い大人役”を演じる事が多かった。その為、長さんという人間は厳しくて怖い人、というイメージが私の心の中に刻み込まれたのであろう。

 しかし、踊る大捜査線の和久さんは、温和でどこか飄々とした老刑事である。見た目の上では、『全員集合』の時の怖い長さんとはまったく正反対である。しかし、ドリフのリーダーという枷から開放された時、そこに残るものはきっと和久さんのような長さんなのではないだろうか? また、和久さんにしても長さんにしても、確固たる信念を持ち、周りに対して細やかに気配りを払う。見た目ではなく、中身で長さんと和久さんが私にはダブって見えるのだ。恐らく、見た目通り、ただ厳しいだけの人間ならば、ドリフの仲間は今頃バラバラになっている事だろう。そして、なによりこれだけ多くの人々に愛されたであろうか? ブラウン管からでも滲み出てくるあの優しさ。あれは、ただの演技ではなく、長さんそのものが持っている優しさではないのだろうか?

 私にとって、子供の頃は怖くて厳しいお父さん、大人になってからは、人生の先輩として尊敬出来る、優しいお爺ちゃんだった。
 そうか。そうだったのだ。ブラウン管やスクリーンの向こうの遠い存在であるけれど、いつしか私は長さんの事を本当の肉親のように身近に感じていたのだ。人に話せば鼻で笑われるだろうけれど、それでも私にとっては父親でありお爺ちゃんであったのだ。だからこんなに胸が切なく苦しくなるのだ。

 私は大きく息を吐いた。窓の向こうはいつしか夜の帳が落ち、街は光に包まれていた。車内アナウンスが私の目的の駅名を告げた。私は一口だけ口をつけた珈琲を一気に飲み干して、空になった珈琲缶と新聞を左手に持ち、右手でカバンを持ち上げながら席を立った。

 ホームに降り立ち、手に持ったゴミを捨てようとゴミ箱を探した。ほどなくしてゴミ箱は見つかり、まず空き缶を投げ捨てた。次に新聞を投げ込もうと思ったが、私の腕は中空で静止した。しばらく考えた後、私は新聞をカバンの中に仕舞い込み、改札口へ繋がるエスカレーターへと足を踏み入れた。改札口を抜け外へ出る。アスファルトがところどころ黒く滲んでいた。どうやら雨が降った後か降り始めらしい。生憎傘の持ち合わせが無かった私は雲を見ようと空を見上げた。分厚い雲の隙間に星が小さく瞬いていた。これならばもう雨が降る心配はなさそうだ、とほっとした私に春の一際強い風が吹き抜けた。分厚い雲が流れた。その雲の向こうから一際燦然と輝く星が姿を見せた。私は人目も気にせずその星に向かって大きく腕を振り上げて、叫んだ。

「オイッス!」

 

親愛なるいかりや長介さまへ。いままでたくさんの感動と、そしてたくさんの笑顔をありがとうございました。天国ではあまり働き過ぎないように、お体をいたわってくださいね。

私の心のお爺ちゃんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

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