まだ余韻が残るコンサート会場から僕は車で飛び出した。これから反省会、明日の為の打ち合わせと称した食事会があるけれど、そんな物はパス。僕はこれから大切な人の元へ行かなければならないのだから。
今回の全国ツアーは地方から始まった。東京を離れたのがニ週間前。たった二週間、彼女と会えないだけで、僕の心はまるで砂漠で水を求める旅人の様にカラカラに乾いていた。早く彼女に会いたくて、自然とアクセルを踏む僕の右足に力が入った。
東京と言ってもこんな夜遅くになれば交通量は随分と減る。路肩に止まるタクシーが邪魔に感じないくらい、僕の車はアスファルトを軽やかに蹴って、僕を彼女の待つ場所へと運んで行く。
青山通りに入った所で、僕は助手席に放り投げたままになっていた携帯電話を掴んだ。この携帯電話は彼女専用。彼女しか電話番号は知らないし、登録されている番号も彼女の携帯電話の番号のみだ。だから、いちいちアドレス帳から電話番号を探し出すなんて面倒な手間は要らない。リダイアルボタンを押すと勝手に彼女の携帯電話へと取り次いでくれる。
彼女には今日行くと事前に連絡をしてある。彼女も二週間ぶりの再会を電話の向こうで喜んでくれた。きっと今か今かと携帯電話を睨みながら僕からの電話を待っているに違いない。僕の推理は見事に的中した。リダイアルボタンを押してワンコール目ですぐに彼女が電話に出た。
「あ、もしもし・・・僕」
「遅い!」
「今さ、青山通りなんだ。後、ん・・・五分で着くから」
「十一時に来るって言ったよ」
「アンコール鳴り止まなくてさ」
「もぅ・・・いいよ!」
「なんだよ」
「来なくていいよ!他の人来てるし・・・」
「そっか・・・じゃあUターンするよ」
「嘘だよ」
「知ってる」
そう。知ってる。僕は誰よりも彼女を愛しているし、彼女は誰よりも僕を愛している。お互いの馬鹿な演技を電話を通して小さく笑い合った。
そんなやり取りを楽しんでいる間に僕の車は交差点に差し掛かる。ハンドルを左へ切ると車が滑る様にその方向へと曲がって行った。
「今交差点曲がったから・・・五百メートル」
「うん」
「後・・・三百メートル」
「うん!」
先ほどよりも彼女の声は弾んでいた。僕は車の速度を少しずつ落としていく。
「後二百メートル・・・あ!見えてきた。十三階だったよね?」
合鍵を使って何度も行った部屋だ。聞かなくても彼女の部屋は分かっている。でも、愛し始めたあの頃の気持ちをいつまでも持ち続けたくて、わざと僕はいつも彼女に聞く。彼女も分かっているから文句は言わない。
「待って。今灯り消してみる」
「フッ。モールス信号じゃないんだから」
彼女の部屋の明かりがチカチカと点滅を繰り返した。時に規則的に、時に不規則に。そのサインを僕は知っている。それは僕達二人を繋ぐ言葉。でも意地悪く彼女に聞いてみた。
「なんてサイン?」
「Crazy for you」
合鍵を使って扉を開くと同時に、すでに玄関で待っていた彼女は僕の胸へと飛び込んできた。僕は彼女を優しく抱き止めた。彼女の甘い香りはどんな香水でも敵わない。その香りを嗅ぐだけで僕の心は安らぎを感じていた。
玄関でしばらく抱き合った後、彼女の唇に軽くキスを落として、腕を組みながら彼女の寝室へと入り、ベットに腰掛けた。
「カーテン閉めて」
「ねぇ?車どこ停めた?」
カーテンを閉めながら外を眺めて彼女が尋ねてくる。
「ガード下の・・・ほら街灯が瞬きしている」
「あそこ目立つよ」
「サングラスして来た」
外したサングラスをジャケットの胸ポケットにしまいながら僕は微笑んだ。
「してても分かる」
「誰か居るのか?」
「居るかもよぉ。私、知らないから。見つかっても」
窓際から離れて、ベットに座る僕の脇に彼女は腰を降ろして、不敵な笑みを浮かべた。
「誰も見てないさ」
「え?」
「うん?」
「だって、私が告げ口するもん」
「誰に?」
「フォーカス」
両手の人差し指と親指でカメラの形を作って見せて、右手の人差し指でパシャリと写真を撮るような仕草を彼女はしながら楽しそうに微笑んだ。
「言えば?」
冗談だと分かってはいるけれど、彼女が今度はどんな仕草をしてくれるのか、どんな表情をしてくれるのかを見たくて、ちょっとだけ苛めてみたくなった。
「・・・嘘だってぇ」
あっさりと白旗を上げられては面白くない。
「言ってもいいよ」
「すぐ苛めるぅ」
ぷぅと頬を膨らませながら彼女が拗ねてみせた。その表情も愛しくてまた僕は彼女の唇へキスを落とした。
「苛めてないよ・・・それより消えるの?」
ベットサイドに置かれた電気スタンドが二人を仄かに照らしていた。僕はその灯りを意味ありげに眺めて微笑んだ。
「ライト?・・・消えるけどぉ」
蠱惑な表情を浮かべて、挑発的な視線を僕に投げかけながら彼女は微笑んだ。
「うん・・・消して」
灯りを消している彼女の後ろから僕は抱きつき、彼女の顔を強引に僕の方へ向けると、今日三度目のキスを唇へ落とした。キスをしながら僕は彼女の両肩を抱いて優しくベットへ倒した。そこで唇を開放すると彼女は熱い吐息を漏らした。
彼女の瞳が潤んでいた。僕はその瞳に吸い寄せられるかのように再びキスをしながら彼女の身体をきつく抱いた。
彼女の鼓動が聞こえてくる。きっと僕の鼓動も聞こえているだろう。お互いの火照った身体を静める為に、僕たちは何度も何度もお互いを求め合い、激しく愛し合った。
「海の中に居るみたい」
「うん?」
天井を見上げながら彼女がポツリと呟いた。
「ほら。この部屋テレビが終わっているから」
「あぁ」
連日のツアーの疲れと、今まで愛し合っていた余韻で僕の頭は麻痺していた。彼女の横顔から天井へと視線を移して、彼女の言葉を理解しようと思考を巡らせる。
普段、このベットに横になってテレビを見ているのであろう。そのテレビは消えていて、その脇にあるオーディオも電源が消され、音楽を流す本来の役目を放棄していた。
寝室の中にはカーテンからたまに差し込んでくる車のヘッドライトの光と僕たちの吐息だけ。彼女の言う通りまるで海の中から空を見上げている、そんな気分だった。出来ればこのまま時が止まって欲しいと思う。明日なんていらない。彼女と一緒にこのまま居られるならば。でも、彼女の一言が僕を現実へと無理やり引き戻す。
「ねぇ?明日もあるんでしょ?」
「あるよ」
ちょっと憮然と僕は答えた。
「・・・私、言ってもいいかなぁ」
「あぁ」
「すごい汗」
天井を見上げていた彼女は、僕の方へ顔を向けて右手の人差し指で僕の胸をいじくりながら、驚いた表情でクスクスと笑った。
「バラード一曲分だよ」
僕はこれまで色々な曲を作ってきたけれど、彼女と一緒に奏でる熱いバラードの前ではどれもこれも色褪せてしまう。この先このバラードを越える曲を作る自信は僕には無かった。
「クスッ」
「水飲みたいな」
もう少し熱い余韻に浸っていたくて、つい彼女に甘えてしまうけれど、彼女は嫌な顔ひとつしないでベットから起き上がった。
「うん。ちょっと待っててね」
そのまま寝室の入り口まで歩いていってドアノブに手をかけるけれど、そこで彼女は振り向いた。ちょうど車のヘッドライトが部屋に差し込んできて、彼女の表情をぼんやりと照らし出した。怒っているような困っているような表情をしながらベットまで戻ってくる。
「ダメ!シーツ貸して!!」
そう言うなり僕から無理やりシーツを引き剥がした。心も身体も曝け出した同士。今さら恥ずかしがる事は無いのに。そう思うと可笑しくて彼女には悪いな、と思いながらも大声を出して笑ってしまった。
「行ってもいいよね?私まだ見に行った事ないし」
台所で水をグラスに注いでいるのだろう。その音と一緒に彼女が少し声を大きくして尋ねてきた。寝室のドアは開けたままになっているので聞き取りにくいという事は無いけれど、彼女に合わせて僕は声を少し大きくして答えた。
「無かったっけ?」
「無いよ。誰と間違えてるの?」
薮蛇とはこう言う事を言うのだろう。彼女を僕のステージへ誘った事は一度も無い。やっぱり疲れているのか分かりきった事を聞いてしまった。
誘って問題がある訳ではないけれど、僕が今日まで彼女を誘わなかったのは、ステージの上での僕を見せたくなかったから。そこに居る僕はファンたちが作り上げた偶像を演じているだけで、本当の僕では無い。本当の僕は今ここに居る。彼女と一緒に居るこの時にのみ存在している。だから彼女には偽者の僕を見せたくなかった。作られた僕を見られて、彼女の愛を失うのが僕には怖かった。だから確かめたい。安心したくて僕は彼女にくだらない事を尋ねてしまう。
「じゃあ、どこで会ったんだっけ?」
「忘れたのぉ!」
「忘れてない・・・」
そう。忘れてないよ。彼女の反応から察するに彼女もまた忘れていないようだ。分かりきっている事なのに何故か安心してしまう。馬鹿だな僕は。自虐的な笑みを浮かべて小さく呟いた。
「はい。お水」
シーツをずるずる引きずりながら寝室に戻ってきて、彼女は憮然と言いながら僕にグラスを手渡してくれた。グラスの中には氷が何個か入っていた。その心遣いがたまらなく嬉しかった。
「サンキュ」
「そうやって私の事もすぐ忘れるんだ」
ため息交じりにそう呟く彼女の声を聞きながら、僕は一気に水を煽り、空になったグラスを見つめた。もし彼女が僕を忘れてしまったら。そう考えると怖かった。きっと彼女も今同じ気持ちなのだろう。
「忘れたら・・・」
カロンとグラスの中の氷が鳴く。
「忘れたら?」
「忘れたら・・・もう一度戻るさ」
僕はグラスを持っていた事などすっかり忘れて両腕で彼女を抱きしめた。そしてお互いの存在を確かめるように今日何度目かのキスを彼女の唇へ落とした。唇を離した時には絨毯の上に落ちた氷はすっかり融けていて、そこに黒い染みが広がっていた。
「もぉお〜?」
着てきた服に袖を通して、最後に彼女が手渡してくれたジャケットを羽織る僕の後ろで彼女が寂しそうに呟いた。
「明日早いんだ」
僕も出来るならばこのままここで彼女といつまでも愛し合っていたい。でも僕は帰らなければならない。偶像の僕を待つ人達の為に。
「ちぇっ!」
「おやすみ」
右足で小石を蹴る素振りをしながら、彼女は唇を尖らせた。僕だって不安なんだ。だからそんな顔をされたまま別れたくは無い。彼女の瞳を見つめながら、僕は彼女の前髪を右手でかき上げて、おでこに軽いキスを落とした。それでも彼女の表情からは翳りが取れない。
「忘れ物だよ」
「・・・何?」
「これ。鍵!」
泣きそうな表情で彼女は右手の掌の上に僕の合鍵を乗せて、僕に向かって腕を突き出した。
「・・・あぁ」
「もう来ないつもり?」
僕はどうしようもなく疲れているのか。合鍵を置いていくという事はもうここには来ないと彼女に思われても仕方が無い。僕は慌ててその場を取り繕う言葉を必死で探す。でも疲れた頭ではいい言葉が浮かばず、苦し紛れの言葉が僕の口から勝手に零れ落ちた。
「・・・明日見に来いよ。名前言ったら入れるようにしとくからさ。マネージャ知ってるよね?」
「うん。一万人の中の一人だね」
やっと彼女が笑ってくれた。その笑顔を見て僕は確信した。彼女なら大丈夫。きっとステージの上の僕では無い僕を見ても彼女の気持ちは変わらない。僕が彼女を信じてあげなくて、誰が彼女を信じてあげると言うのだ。そう。彼女に僕の総て見てもらおう。そう考えると気持ちが幾分軽くなった。苦しい言い訳から出た言葉だけれど、彼女とのこれから先の未来を考えた時、いずれはもう一人の僕を見せなくてはならない。それが早いか遅いかだけ。丁度いい機会かもしれない。
「目が合ったら、手、振るからさ」
「合うわけ無いよぉ」
彼女は小さく笑いながら僕の言葉を否定したけれど、でも例え何万、何億万の人の中からでも彼女を見つけ出せると自信を持って僕は誓える。
「ねぇ?明日の夜は来れる?」
靴を履いて玄関のドアノブを掴む僕の後ろから、ジャケットの袖を引いて彼女が尋ねてきた。
「ステージの上からサイン送るよ」
「何て?・・・ねぇ何て?」
僕は躰を屈めて彼女の耳元で囁いた。それは僕達二人を繋ぐ言葉。
「Crazy for you」
2003年7月28日
文:咲夜
|