忘れ草で身を飾り

 壁板の隙間から朝の光が漏れていることに気づいて、はそっと身を起こした。
 遅い時間にようやくたどり着いた、この朽ちかけた古い無人の庵で一行は夜を明かした。夜具などあるはずもなく、寝心地は最悪で体中が痛い。――だが、文句を言っても仕方がない。現代で使っていた柔らかいベッドを恋しく思い出しながら、は肩をさすり、外へ出た。
 朝日のまぶしさに、不機嫌そうに顔をしかめていただが、一瞬の後、それは驚愕の表情に変わった。
(うわぁ、きれい……)
 庵の周囲には一面に、鮮やかな赤黄色の山百合によく似た花が咲き誇り、まだ乾いていない朝露が、時おり陽の光にきらきらと輝いている。
(昨夜、ここに着いたときには気づかなかったな。月も星も雲に隠れていて、真っ暗だったから)
 朝露に服が濡れるのもかまわず、は花の群れの只中へと歩いていた。
(先生にも見せてあげたかったな。こんなきれいな場所、現代じゃなかなかお目にかかれないもんね)
 先生のことを思い出し、軽く微笑んでいた口元から溜息がもれた。
 かごめの話では、先生はのマンションを訪ねてきたという。それも、心配そうに。
(……よかった。先生、怒ってないんだ)
 あの日。骨喰いの井戸に飛び込み、帰れなくなった日。その日の学校での出来事を、は思い返していた。

 放課後、西日の当たる学校の中は、蒸し暑かった。
 居残りしている生徒たちの話し声、部活をやっている人たちの掛け声、途切れ途切れに響いてくる吹奏楽部のトランペットやホルンの音。
 そんな騒がしいはずの空間で、まるで魔法のように2人きりになれた、階段の踊り場。
「……好きなんだけど」
 言った瞬間、先生は少しだけ驚いたように眉を上げた。
 告白して、彼女にしてもらうつもりではなかった。先生と生徒という関係のまま、彼と彼女になるなんて、先生の性格からみてもありえなかった。
 ただ伝えたくて――つのる想いを1人で抱え込んでじっとしているなんて、絶対自分らしくないと思えたから。
 だから、伝えられただけで満足した、はずだった。
、俺は……」
 戸惑っているように、先生の言葉は宙に浮いた。一人称が「俺」になっているのは、動揺している証拠だ。は、続きの言葉を待った。
 しかし、待ち望んでいる言葉は聞かれないうちに、階段の上から他の声が響いてきた。
「せんせー? なにやってんだよ。顧問が遅刻してちゃ、話にならねーよ」
 声をかけてきたのは、写真部の生徒らしかった。
「おー、今行くから」
 先生が階段の上を振り仰ぎながら返事をすると、声の主は立ち去った。先生の視線が再びをとらえたとき、そこにはもう動揺の色は見られなかった。
「先生! あたし……」
 言いかけるの頭を、先生は優しくポンポンと撫でた。
「私もが好きですよ。――おまえは可愛い生徒の1人ですからね」
 そう言うと、先生はゆっくりと階段を上っていった。白いシャツを着た先生の背中が、少しずつ遠ざかっていく。
 彼女にしてもらうつもりではなかった。だけど、子ども扱いでうやむやにされるのは――たくさんいる生徒たちの中の1人に過ぎないと思い知らされるのは、嫌だった。
 気がつくとは上靴を脱ぎ、先生の背中に思いきり投げつけていた。
 靴は、先生の背中の真ん中に当たり、白いシャツに薄茶色の汚れをつけ、階段をゆっくりと転がり落ちてきた。
「……痛え」
「バカ!」
 振り返った先生に罵声を投げつけ、靴も拾わずには階段を駆け降りていた。

(結局、謝ることもできないまま……)
 そのまま、こちらの世界に来てしまった。いつ、謝ることができるのかもわからない。
 先生がマンションに来ていたという話を聞いたときはうれしかったが、教師として、問題行動の多い生徒を心配するということは、至極当然なことのようにも思える。
 特別じゃない。ただの生徒の1人に過ぎないのだから――
「あなたも、かなわぬ恋をしているの?」
 突然かけられた声に、は驚いて立ち止まった。考え事をしている間にずいぶん歩いていたようで、みんなが眠っている庵からかなり離れてしまっている。
 声の主は、美しい女だった。豊かに長く、艶やかな髪。鮮やかな萱草色の着物。わずかに指した紅が、白い肌と対照的に紅い。
「あんた、誰?」
 の問いにも答えず、女は白い指で優雅に花を手折っている。朝露に衣装が濡れるのも気にならない様子だ。たちまち女の胸元に大きな花束ができた。
「……この花を身につけると、憂いを忘れることができるのよ」
 作った花束に顔を埋めながら、女が囁くように言った。はなんと答えたらよいのかわからず、押し黙ったままだった。
 女は顔を上げ、艶然と微笑みながら花を1本抜き取った。そして、それをの髪に挿した。
「忘れ草で身を飾り、悲しい恋は忘れてしまいましょう」
 花束が、目の前にあった。そのむせ返るような甘い匂いに、の意識は朧げになっていった。
(……あたしの恋は、悲しい?)
 瞼の裏に、先生の顔が浮かんだ。そして、先生によく似た誰かさんの顔も。
(弥勒さま……?)
 そこでの意識は途切れてしまった。
 忘れ草の花の上に横たわるを、女は寂しげな瞳で見つめていた。やがてその姿は空気に溶けるように消えてしまい、忘れ草の花束だけが残っていた。

「こんなところで何をしているのです?」
 優しい男の声で、は目を覚ました。最初は自分がどこにいるのか、よくわからなかった。
 だが、目に鮮やかな花の色、むせ返るような甘い匂いで徐々に思い出していった。
(そうか。あたし、早くに目が覚めて、庵の外に出て……)
「あの庵の寝心地が悪かったのはわかりますが、何も花の上で眠らなくても。最初見たときは、死んでいるのかと思い、焦りましたよ」
 男の口調はのんびりしていたが、目は笑っていなかった。本心からを心配していたのだろう。
「え……と、その、ごめんなさい」
 は、まじまじと目の前の男を見た。墨染めの衣。紫紺の袈裟。右手に巻かれた長い数珠。
「それで、その……法師さまは、誰なんですか?」
 の問いに、弥勒は絶句した。

「おらのことはわかるか?」
 は、こっくりと頷いた。
「七宝ちゃんでしょ。それに、犬夜叉、かごめちゃん、珊瑚ちゃん、雲母……」
 順番に指していた右手が、弥勒の前で止まった。
「誰だっけ?」
 弥勒はがっくりと肩を落とした。かごめと珊瑚が、気の毒そうに彼を見ている。
ちゃん、散歩の途中で頭でも打った?」
 は、ふるふると首を横に振った。確かに彼女の頭には、傷もこぶもない。それなのに、なぜか弥勒のことだけが、の記憶から抜け落ちていた。
「元の時代のことは、覚えているんだよね?」
 訝しげに、珊瑚はの顔をじっと見ていた。抜け落ちてしまった記憶のせいか、の表情は、いつもよりも穏やかに見えた。いつも何かにイライラしているような、あのピリピリした表情が、今の彼女には見当たらない。……あるいは、髪に飾られた花の鮮やかな色のせいか。
 はまたこっくりと頷いて、暗唱するように答え始めた。
「東雲高校の2年生。母親は病死。父親は新しい奥さんと海外赴任中……」
「先生のことは?」
 弥勒が鋭く尋ねた。元の時代のことを訊いて、先生の名前が出てこないなんてことは、今までのにはありえない。
「……先生?」
 そう尋ね返すの瞳には、何の感情の色も表れていない。一同は、が先生のことも忘れていることを、理解した。
「これは、心の病気なの? それとも妖怪の仕業?」
「わかりません」
 かごめの問いに、もどかしそうに弥勒が答えた。
「……昨夜は何の邪気も感じなかった。犬夜叉は、何か気づいたか?」
「いや。昨夜ここに来たときは、何も感じなかった。……だが、目が覚めてからは、花の匂いがきつくて、何もわからねえ」
 弥勒は頷いた。人間よりも臭覚の鋭い犬夜叉には、このあたり一面に咲き乱れている萱草の花の匂いが妨げになるのは、わかる気がした。
「……あの」
 おずおずと、が声を出した。
「あたし、この人のことは忘れてるみたいだけど、体は何ともないし。よかったら、そろそろ出発しませんか?」
 あっけらかんとした表情だった。弥勒のことを思い出せないことなど、彼女にとってはどうでもいいということが、その表情から窺えた。
 弥勒は、思わず何か言おうとして、その言葉を飲み込んだ。そして、強いて冷静な表情を作ると、に手を差し出した。
「出発する前に、お願いがあります。……その首に下げている水晶を、私にいただけませんか」
「これ?」
 は何のためらいもなく、水晶のペンダントを首からはずした。その水晶が、にとっては命よりも大切なものであったことも、今の彼女は忘れているのだ。
 弥勒はその水晶を受け取ると、右手で強く握りしめた。
「……かごめ様、この水晶には四魂のかけらが入っていますが、しばらくの間私に預からせてください」
 思いつめた表情の弥勒の願いに、否と言う者はいなかった。

 しばらく歩いているうちに、小さな村のはずれにたどり着いた。田畑のあちこちに、粗末な菅笠をかぶって働いている村の男たちの姿が見える。彼らは、一行の姿を認めると、一様に手を止め不躾といってもいいくらいの執拗な視線を向けてきた。
「……ねえ、どうかしたのかしら」
「さあな」
 じろじろと、物珍しげに見られるのは慣れていた。半妖姿の犬夜叉。セーラー服のかごめ。人目を引いてしまうのは、仕方のないことである。
 しかし、今日の村人たちの視線は何かが違う。物珍しげというよりは、むしろ哀れみの視線を、かごめでも犬夜叉でもなく、に向けている。そして、村人同士でひそひそと語り合っては納得したように頷き、また一段と哀れみの目を向けてくる。
「……あの、なにか?」
 かごめが尋ねると、村人の1人が口を開いた。
「あんたたち、あの庵に行ったんだな」
「あの庵と言いますと……あの山間の、朽ちかけた庵のことですか?」
「そうだ」
 弥勒の問いに、村人は大きく頷いた。
「何か曰くのある庵なのですか?」
 重ねて問う弥勒に向かって、村人は恐ろしそうに肩をすくめた。
「出るんだよ」
「は?」
「世にも美しい、女の幽霊だ」
「……はあ。それは、それは……」
 思わず鼻の下が伸びかける弥勒を、珊瑚がきっと睨みつけた。
「昔、恋人に捨てられた女があの庵に住み着き、男を忘れるために辺り一面に忘れ草を植えたんだそうだ」
「忘れ草?」
「ほら、その花のことさね」
 村人は、の髪に飾られている萱草の花を指差した。忘れ草というのは、萱草の古名らしい。
「庵を埋め尽くすほど忘れ草を植え育てたが、結局男のことを忘れることができないまま死んでしまった。それ以来、その女の幽霊が現れては、若い女を物忘れの病にしてしまうっちゅう話だ」
 一行は顔を見合わせ、一様にを見つめた。
「……辻褄は合うな」
「では、その女幽霊に話をつけることにいたしましょう」
 そう言うと、弥勒はきびすを返してもと来た道を戻り始めた。
「弥勒の奴、相当焦っておるのー」
 早足で進む弥勒を見て、七宝があきれたように言った。
「それだけに忘れられたことに、むかついてるんだろ。自分だって昔の女の顔も忘れてるくせによ」
 いい気味だ、とでも言いたげな犬夜叉の表情だった。
 自分のことで必死になっている弥勒の気持ちにも気づかぬ様子で、は一行の後ろを、道端で摘んだえのころ草を振り回しながらのんびりと歩いている。
 珊瑚は足を速めると、弥勒の横に並んだ。
「法師さま、変わったね」
「何がですか?」
 表情だけは余裕を見せながら、相変わらず早足のまま、弥勒は珊瑚に問い返した。
「……以前の法師さまだったら、自分のことを忘れられたのなら、そのまま忘れさせておくと思う。そして、別の女の人を探しただろう」
 薄情ゆえ、ではない。右手に風穴がある限り、弥勒はどんな女とも明日を約束できないのだ。そんな男を一途に想ってしまうのは、女にとって不幸である。忘れてしまえるものなら、そのほうが幸せにちがいない。
「珊瑚は、私のことを買い被っている」
 弥勒は、少しだけ足の速度を緩めた。
「涙もなしで私のことを忘れるなんて、口惜しくて我慢ができないんですよ。しかも、他の男を忘れるついでなんですからね。いくら顔が似ているからって。……私は、意地悪な男なんですよ」
 そう言うと、弥勒は再び足を速めた。
(いっそ、あたしが物忘れの病にかかれていたなら、よかったのに)
 弥勒の後姿を見ながら、珊瑚はそっと溜息をついた。

 すっかり日も高くなったころ、一同は再び朽ちかけた庵の前に立っていた。相変わらず赤黄色の忘れ草が、庵の周囲を埋めつくすように咲き誇っている。妖気、邪気の類いは感じられない。
「で、どうやって女幽霊を呼び出すんだ?」
 腕組みをしながら、犬夜叉が訊いた。弥勒も、歩きながらその方法を考えていた。女幽霊は、若い女を物忘れの病にするという。だとしたら……。
「あたしが行くよ」
 珊瑚が、無造作に言った。
「大勢でぞろぞろ歩いてちゃ、幽霊も出づらいだろ。あたしがおびき出して話をつける」
「しかし、それでは今度は珊瑚が物忘れの病にかけられるかもしれない」
 弥勒は慎重だった。
「私も行きますよ。犬夜叉たちは、ここでの様子を見ていてください」
 そうして、2人は連れ立って花の群れの中を歩き始めた。は2人をぼんやりと眺めていた。胸の中に、何かわだかまるものがあった。だけど、それが何なのか、今のにはわからなかった。

「……珊瑚、申し訳ない」
 庵が、小さな点に見えるほど遠く離れた場所まで歩いたころ、弥勒がポツリと言った。驚くことに、赤黄色の花の群れは、まだまだ果てることもなく咲き誇っている。
「どうして法師様が謝るのさ。あたしは退治屋だよ。これくらい当たり前のことじゃない」
 わざと素っ気なく、珊瑚は言った。そうしないと、弥勒に本心を見抜かれそうで怖かった。
「それにしても、この花の群れはどこまで続くのでしょうな」
 少しあきれたように、弥勒はあたりを見回した。
 これだけの忘れ草を、女はどんな想いで植え育てたのだろう。あたしが恋しい人を忘れるためには、どれだけの花を植えなければならないのだろう……。
 そう珊瑚が考えたとき、足元にいた雲母が毛を逆立てた。
 ハッとして弥勒と珊瑚が振り向くと、そこに彼女はいた。村人たちの噂どおり、世にも美しい、そして哀しげな瞳をした女幽霊だった。弥勒は、思わず息を飲んだ。
「あんたが、この忘れ草を植えたのかい?」
 珊瑚の問いに、女はこくりと頷いた。そして、手近にあった忘れ草を1輪摘み取った。
「……あなたにも、忘れてしまいたい想いがあるようね」
 珊瑚の頬が、赤く染まった。心を見透かされている?
「私たちの仲間が、あなたの術で物忘れの病にかかってしまったようなのです。どうか、術を解いてはくださらぬか」
 女は、2輪目の忘れ草を摘んだ。花の匂いを愉しむように、自らの顔のそばによせる。
「私には、そのような妖かしの術は使えませぬ。私にできるのは、この忘れ草を分けてあげることだけ。……そのお仲間の方は、自ら忘れたいと願っていたのではありませぬか?」
 女の言葉に、弥勒と珊瑚は顔を見合わせた。

 は、ぼんやりと弥勒と珊瑚の姿を目で追っていた。2人とも、庵からはかなり離れたところまで行ってしまったので、軽い近眼のの目には、にじんだ点のようにしか見えない。
 なぜ2人のことが気にかかるのか、には不思議だった。珊瑚ちゃんと、あの人――何度名まえをきいても忘れてしまう――は今、何を話しているのだろう。
「ねえ、ちゃん。あたし前から聞きたかったんだけど」
 横にいたかごめが、気分を引き立てるように明るい声で言った。犬夜叉は座り込んで、何かの気配に耳を澄ましていた。鼻は効かないまでも、妖怪の邪気を警戒しているのだろう。七宝は、がいつの間にか手から落としたえのころ草を拾って、弄んでいた。
「あたしたちが初めて会ったとき、ちゃん、うちの神社でお参りしていたじゃない? あれって、何をお願いしていたの? ちゃんって、あんまり神頼みしなさそうなタイプなのに」
「お参り……?」
 そうだ。そのときのことは覚えていた。お参りした直後、かごめに出会い、妖怪に襲われ、井戸に飛び込んだのだ。「神頼みしなさそうなタイプ」と言われ、なるほど自分はそう見えるのかと、は思わず笑顔になっていた。
「あのときは、素直に謝れるように力を貸してくださいって……」
 言いかけた言葉が止まった。謝るって、誰に? 考えようとすると、頭の中に霧がかかるようだった。……思い出したくない。悲しい思い出は、忘れていたい。
「らしくねーな」
 犬夜叉が、鼻で笑うように言った。
「てめーが、素直に謝るってタマかよ。そりゃあ頼まれた神様の方が困るだろうよ」
 犬夜叉の言い方に、はカチンときた。
「悪かったわね、素直な女じゃなくて! でも、どーしても謝りたかったのよ。子供みたいなかんしゃく起こしちゃって、あのままじゃ、あたし……」
 子供みたいなかんしゃく? ……蒸し暑い学校の階段。振り向く誰かの姿が浮かぶ。しかし、その顔は霧に隠されていた。
 花の甘い匂いがまとわりついてくるのが、次第にうるさく感じられてきた。この匂いをかいでいると、頭の中の霧が深まるような気がする。頭をかきむしろうとして、ふと髪に挿されたままの花に気がついた。
「……そうよ。こういうのって、まったくあたしらしくないのよね」
 頭に花を飾って微笑んでいるなんて、ガラじゃなかった。悲しい、苦い思い出を忘れたいがために、誰かのことを――先生のことさえも忘れようとしていることも。
 あの日、あたしは神様の力を借りて謝るつもりだったのだ。そして、もう一度言うつもりだった。今は大勢の生徒の中の1人に過ぎなくても、やがては卒業して生徒ではなくなる。そのときには、可能性はないのだろうかと。――まだ、終わった恋じゃない。悲しい恋になると決まったわけじゃないのだ。
 は、髪から花を抜き、地面に捨てた。
「あたし、行ってくる!」
 そう言うと、花をかきわけて歩き始めた。
「……思い出せたみたいね」
 ホッとした様子でかごめがつぶやいた。
「そうみてえだな」
 犬夜叉は、先ほどから幽霊の気配に気づいていた。しかし、邪悪なものは感じられず、自分の出る幕ではないと感じていたのだ。
「弥勒のやつ、喜ぶじゃろう」
 七宝は、えのころ草を振りながら、うれしそうに言った。

「私には何もできませぬ。おそらく、その方が忘れたいと願っていた心に、この花が力を貸してくれたのでしょう」
 女が摘んでいた忘れ草は、いつの間にか小さな花束ほどになっていた。
 弥勒と珊瑚は、かすかに頷いた。彼女の言葉に嘘は感じられない。問題なのは、おそらくは髪に飾られた忘れ草。そして、の心なのだろう。
 さっきまで、珊瑚は女に忘れ草をもらいたいと、心の奥底で思っていた。今傍らにいる男のせいで胸に湧き上がる、甘くて苦い想いを忘れるために。だが、それは無駄なことだと悟った。自分の心が問題だというのなら、たとえ忘れ草を飾ったところで、あたしは忘れることができないだろう。
「……こんなにたくさんの忘れ草を植え育てるなんて、相手の男のこと、すごく愛していたんだね」
 ふと、珊瑚は話題を変えた。それまで艶然と微笑んでいた女は、そっと目を伏せた。
「私がこうして忘れ草を植え続けていることを、風の噂にでもあの方が知ってくだされば――まだ私が、あの方のことを忘れられずにいることをわかっていただけるのではないかと。愚かな女の浅知恵ですわ。……でも、私はもう疲れてしまいました」
 女は、弥勒に哀しげな瞳を向けた。
「法師さまにお願いがございます。私に『おまえの気持ちはもうわかった』と、言っていただけませぬか」
「それはかまいませんが、なぜ私に?」
「……似ているのです。法師様が、私の想い人に、姿も声も。あの方も墨染めの衣をまとい、右手に長い数珠を巻いておられました」
 弥勒は、かすかに目を瞠った。この女の想い人というのは、もしや……。
「お願いいたします、法師さま……」
 弥勒は女に近寄ると、彼女をそっとその腕にかき抱いた。そして、女のうすい白い貝殻のような耳朶に唇を寄せると、囁くような声で言った。
「あなたのお気持ちは、よくわかりました。……長い間お待たせして、申し訳ない。でも、もう待たなくてもよいのですよ」
 女の閉じた瞼から、露のような涙が零れ落ちた。
「ありがとうございます、法師さま……」
 そう言い残すと、女の姿はすうっと消えてしまい、弥勒の手には、忘れ草の小さな花束が残されていた。
「法師さま、彼女の想い人というのは……」
 声が喉に絡まりつくようだ、と珊瑚は思った。弥勒に抱きしめられた女に妬心を感じたせいか、それとも長い間男を忘れきれない女の姿に自分が重なったせいか。
「彼女の着物は、今様のものではなかった。おそらくは4、50年前の……。想い人というのは、私の祖父のことでしょうな」
 祖父と女との間に、どのような経緯があったのかはわからない。だが、女の気持ちに応えることができなかったことの原因のひとつには、間違いなく風穴のことがあったのだろう。
 弥勒は、強く右手を握りしめた。俺は、誰かに、あのような哀しい瞳をして花を植え続けてもらいたくはない。――が俺のことを忘れたいと願っているのなら、それでいい。
 弥勒は、傍らに立つ珊瑚を、そっと見た。珊瑚は雲母を胸に抱き、美しい髪を風になぶられるまま、一面に咲く忘れ草を見つめていた。
(珊瑚は、俺への想いは、すでに断ち切れているのだろうか)
 その問いを確かめることは、あまりにも珊瑚に酷な気がして、弥勒は何も言えないまま、珊瑚と一緒に忘れ草を見ていた。

 は、一心に歩き続けてきた足を止めた。急いでいたせいか、息が切れている。
 赤黄色の花の中に立つ弥勒と珊瑚は、一幅の絵のように美しかった。ときどき珊瑚を見る弥勒の表情が、優しく、哀しい。
 は、胸の中にあるわだかまりの正体に気づいてしまった。
 このまま、2人に気づかれないうちに引き返そうとしたが、一瞬遅く、雲母が彼女の存在に気づいた。
ちゃん」
 笑顔を向けてくれた珊瑚に対し、は何とか笑顔を返した。しかし、それが本当に笑顔に見えるかどうかは、心もとなかった。
 は、2人のそばへ駆け寄ると、弥勒に右手を差し出した。
「弥勒さま、あたしの水晶返して」
「……思い出してしまったのですか」
 残念そうな響きがこもっている、とは思った。弥勒さまは、あたしが思い出さないほうがよかったの?
 胸のうちに鈍い痛みが走る。この痛みには、覚えがある。先生に「可愛い生徒の1人」と言われ、頭を撫でられたときの、あのときの痛みと同じ種類だ。
 弥勒から受け取った水晶に、は頬ずりした。先生からもらった、大切な水晶――今は、弥勒の温もりを、その内にかすかに宿している。
「あー、もう。こんな大事なもの、どうしてあっさりあげちゃったりしたかな。あたしのバカ! 2度と手放したりしないからね、水晶ちゃん!」
 思わず涙が出そうになったので、はわざと明るく大声を出した。そんなの様子を見て、弥勒と珊瑚は目を合わせて微笑んだ。
「やれやれ。これでやっと、以前と同じに戻りましたな」
(以前と同じじゃない)
 目を合わせて微笑む2人の様子にも、胸が痛んだ。
 は知ってしまった。胸の中にあるわだかまりの正体――それは、嫉妬だった。
 先生のことを忘れていたのは、あの日の出来事を忘れたいと心の奥底で願っていたせいだった。
 弥勒のことを忘れていたのは、ただ単に先生に顔が似ているせいだと思っていた。――しかし、そうではなかった。知りたくなかったのだ。胸のうちに潜む、この感情に。
 表面上は今まで通り笑っていられる。だけどこの苦い気持ちを知ってしまった以上、以前と同じ自分ではないことに、は気づいていた。
(それでもいい。すべてを忘れて、そこから逃げているだけなんて、絶対あたしらしくないから)
 風が吹きぬけ、忘れ草がさわさわと揺れた。立ちのぼる甘い匂いも、もうの心に霧をかけようとはしなかった。



久々の更新……(;^_^A アセアセ…
「忘れ草」という名前を初めて見たときは、てっきり
「忘れな草」の誤植だと思い込んでおりました。
「へぇ〜、赤黄色の忘れな草なんてあるんだー」
などと思ってしまったりして。……無知でした。
小説中に書いた通り、「忘れ草」というのは「萱草(かんぞう)」の
古名です。身につけると物思いを忘れると言われていたそうです。