月の夜 星の淡さ
ボクが研究室に入っていくと、オーキド博士は電話中だった。
何気なく画面を見ると、そこには懐かしいサトシの顔があった。
『あっ、ケンジ! 久しぶり!』
サトシのほうの電話にも、ボクの姿が映ったらしい。相変わらずの元気な声が、スピーカーから響いてくる。
「サトシ、元気だったか?」
オーキド博士は、ボクに気を遣って電話の前の場所を譲ってくれた。ボクは、片手をあげて博士を拝むまねをして、電話の前に座った。
そして、話を始めようとしたとき、
『えっ? ケンジいるの? ちょっとあたしに代わって!』
元気な声と共に、もうひとりの懐かしい顔が現れた。カスミだ。
『ケンジ! あたしね、ケンジに聞いてもらいたいことがあったの!』
「ケンジ、ワシは外のポケモンたちの様子を見てくるから、ゆっくりしておるがいい」
オーキド博士はカスミの話が長くなりそうなのを察したのか、小声で言うと、研究室を出ていった。
「お久しぶり、カスミ。聞いてもらいたいことって?」
オーキド博士の心遣いに感謝しつつ、ボクは電話に向かって言った。
『あたしね、この間マリルに出会ったの!』
カスミは、少し興奮した様子でマリルとのいきさつを話し始めた。
それを聞きながら、ボクはぼんやりと思いだしていた。マサラタウンに残ると決意した日、最後にカスミとふたりで話した夜のことを。
あの日の夜、ボクはなかなか眠ることができず、そっと布団を抜け出して外に出た。
もう夏も終わりで、夜は少し肌寒かった。大きな丸い月が、辺りをほの明るく照らしていた。
目は覚めているのに、まるで夢の中にいるような気分だった。
長い間憧れ続けていたオーキド博士の助手にしてもらえることになった、喜びと興奮。そして、ほんの少しの寂しさ。それらがごちゃ混ぜになって、ますますボクから眠りを遠ざけていた。
「旅は終わり、か」
幼い頃からずっと旅暮らしだったボクにとって、旅は人生だった。だから、こんなふうに寂しい気持ちになるんだろう、とボクは思っていた。
「きれいな月ねえ」
声がして、はっと振り向くと、そこにはカスミが立っていた。
「トイレにしてはなかなか戻ってこないし、どうしたのかと思っちゃたわよ」
「ごめんよ。なんか、眠れなくてね」
「あたしもなの」
カスミは、ボクの横に並んで立った。カスミの髪から、シャンプーのいい匂いが漂っている。
オレンジ諸島からここまで、ずっと一緒に旅してきたけど、こんなふうにふたりきりになるのは初めてだった。
「明日は出発なんだから、カスミはもう休まないと」
「うん、わかってはいるんだけど……」
寒いのか、カスミは両腕で自分を抱きしめるような格好をしていた。
「ケンジも一緒だとよかったのに」
ボクは、顔が赤くなるのを感じた。夜でよかった。月明かりだけじゃ、カスミには気づかれずに済むだろう。
「……なーんてね。ケンジは夢が叶ったんだもんね。ここで頑張るって決めたんだもんね」
カスミは、ボクに無邪気な笑顔を向けた。
ボクは、改めて気づいた。
やっぱり、ボクは、カスミが好きだったんだと……。
カスミがサトシのことを好きだということは、しばらく一緒に旅をしているとわかってしまった。ボクは観察のプロであるわけだし。
でも、だからといってそのことでボクが傷ついたわけではなかった。
その頃は、ボクにはカスミのことを好きだという自覚がなかったし。
むしろ、保護者としてふたりを温かく見守るという感じだった。
ユズジムで、カスミがジギーよりもサトシのことを選んだときも、それが当然のことだと思っていた。
それが変わってしまったのは、あのラフレシアのしびれごなを吸ってしまったときのことだった。
ボクとサトシが同時に寝込んでしまって、カスミのおかげでアシレ水草が手に入って、ボクたちはやっと起きあがれるようになった。
もちろん、カスミはボクのことも心配してくれて、かいがいしく看護してくれたんだけど、最初から最後まで心配して呼び続けていたのは、サトシの名前だった。
そのことが妙に寂しくて、ボクはやっと自分がカスミのことを好きなのかもしれないと思った。
でも、その気持ちはすぐに封印してしまった。
気づいたときにはすでに望みのない恋だった、というのでは悲しすぎる。
だから、ボクは何も気づいていないふりをしていた。相変わらず、ボクはふたりを見守る保護者のままでいた。そして、それは上手くいっていた。
だけど、あの日から、ボクは3人で旅をすることが、少しずつ苦痛になっていたのかもしれない。
だからボクは、このマサラタウンで旅を終わらせることに迷いはなかった。ないはずだった。
「あたしって、ケンジのこと、あまり知らないよね」
月を見上げながら、カスミが言った。
月明かりに照らされた横顔のラインがあまりにきれいで、ボクには痛かった。
「ここまでずっと一緒にいたのに、なんか不思議。このままずっと、マサラタウンにいるわけでもないんでしょ。どこから来て、どこへ行こうとしているのか。まるで流れ星みたいね」
ボクは、不意にボクの気持ちをカスミに伝えたい衝動に駆られた。だけど、声に出しては別なことを訊いた。
「カスミは、サトシとどこまで一緒に行くつもりなの?」
ほんの少し、声がかすれた。カスミが気づいたかどうかは、わからない。
「あたし? ……そうね、考えたことなかったわ。もうこうなったら、とことんついていってやるって感じよ。自転車も、まだ弁償してもらってないしね」
そう言って、カスミは明るく笑った。ボクも、つられて笑った。
だけど、ボクの中では今まで抑えていた気持ちが、凶暴なまでに高まってきていた。この気持ちを伝えるには、言葉だけじゃ足りない。いっそのこと……。
ボクは、カスミの肩に手を伸ばそうとした。
「何やってるんだ? ふたりして」
伸ばしかけた手が、止まった。声の主は、サトシだった。
「ちょっと眠れなくって。ケンジと月を見ていたの」
全く無邪気に、カスミは言った。ボクは、ぐっと拳を握ると、やっとの思いで笑顔を作った。
「サトシも眠れないのかい?」
「ああ。やっぱ、興奮しちゃって」
サトシは、なんの疑問も持たず、ボクたちの横に並んで立った。
しばらくの間、ボクたちは無言で月を見ていた。
「……さあ、ふたりとも、無理してでもそろそろ眠ったほうがいいよ。旅立ちの朝から寝坊しちゃ大変だもんな」
ボクの言葉に何か思い当たることがあるのか、カスミがくすくす笑った。サトシは、照れくさそうに頭をかいている。
「ケンジは?」
「ボクは、もう少しだけ、ここにいるよ」
「風邪ひかないようにね」
家に戻りかけて、サトシが振り向いて言った。
「ケンジ、オレンジ諸島では本当に世話になったよ。ありがとうな」
「ジョウトリーグ、頑張れよ」
「ああ。もちろんさ」
そして、今度こそふたりは家の中に戻っていった。
ボクは、また目を月のほうに向けた。だけど、月なんて全然見ていなかった。
月の光の前では、淡く儚い星の輝き。しかも、やがて視界からすら消えてしまう流れ星。
カスミにとって、月はサトシ。ボクは、カスミの人生に一瞬かすった流れ星のような存在なんだろう。
それは寂しいことに違いなかった。だけど、カスミを好きになったことに後悔の気持ちはなかった。
『……それでね、マリルは結局ミユキさんのところに戻っていったの』
テレビ画面の中のカスミは、マリルとの出会いと別れについて語っていた。
「カスミは、そのマリルのことが好きだったんだね。水系ポケモンだから、という理由だけじゃなくて」
ボクが言うと、カスミはぷっとふくれた顔をした。
『冗談じゃないわ、あんな泣き虫……』
意地っ張りは、相変わらずだ。でも、語尾が震えていた。
「カスミ……、そのマリルをゲットできなかったことを悲しまないで。そのマリルと出会えたことを、喜ぶんだよ」
『出会いを、喜ぶ……?』
「そう。そのマリルと出会って一緒の時を過ごしたことは、カスミにいい思い出を残してくれたじゃないか。たとえ自分のものにならなかったにしても、そのマリルは、カスミの人生に何かを与えてくれているよ、きっと」
カスミの顔が、ぱあっと明るくなった。
『そう……そうよね。ありがとう、ケンジ。そういう風に言ってもらえると、なんかすっきりしちゃった』
「お役に立てて、何より」
『また何かあったら、相談に乗ってくれる?』
「もちろん。喜んで」
『それじゃ、ごめんね、仕事のじゃましちゃって』
「それは大丈夫だよ。じゃ、また」
『うん、またね』
そこで、電話は切れた。でも、ボクは電話の前に座ったままでいた。暗くなった画面に、カスミの残像を追っていた。
「出会いを喜ぶ、か……」
それは、いつもボク自身が思っていることだった。だから、カスミにもすらすらとアドバイスできたんだろう。
でも、頭ではわかっていても、気持ち的にはまだ辛いものがあった。
いつかは、ふたりのことを笑って祝福できるようになるだろう。そのときこそ、カスミはボクの中で「いい思い出」になるだろう。
だけど、今はまだ……。
開け放した窓からさわやかな風が吹き込んで、カーテンを揺らした。オーキド博士が外にいることを、ボクは思い出した。
「さ、お仕事、お仕事」
ボクは立ち上がりながら、もう一度暗い画面を見た。そして、首を振った。
今は、ボク自身の夢のために頑張るしかない。月に負けない、ボク自身の輝きを得るためにも。
ボクは研究室を出て、オーキド博士のもとに向かった。
珍しくケンカス(=^.^=)
ケンカスは好きなのですが、既製のキャラ同士だとどうも動かしづらい。
イメージが固まりすぎてて。
これを書きながら気付いたのですが、私は片思いな設定がとても好き。
そして、けだものになりそうなのを必死で我慢しているストイックな男が大好き。
書かれるキャラとしては、あまりうれしくないでしょうけどねw