月も星もない夜に
「本当に大丈夫なの? まだ子供なのに……」
「失礼なことを。私はこれでも15歳。武家や公家に生まれていれば、元服を済ませ、一人前の男として扱われていますよ」
それでも女は、くすくすと忍び笑いを止めなかった。その笑い声を消すために、弥勒は女の口を自分の唇でふさいだ。
着物の袷に手を入れ、柔らかな胸を探り当てると、口をふさがれた女の喉の奥から、少々甲高い笑い声のかわりに、甘く潤んだ声が漏れた。
それを合図にしたように、弥勒は女をそっと褥に横たえた。
月も星もない闇の夜に、女の柔肌だけが白く光って見えた―――
夜明け前、弥勒は身支度を整えると、そっと屋敷を抜け出した。
疲れたのか、女はぐっすりと眠り込んでいた。
(いい人たちだったなあ……)
弥勒は屋敷に向かって右手で祈り、そっと頭を下げた。そして、後は振り返りもせずに歩きはじめた。
その屋敷は村の名主のもので、弥勒は妖怪退治――ほんの小さな化け鼠だったが――のお礼として、歓待されたのだった。
酒も料理も美味く、娘は美人だった。
(あの家なら、子供が生まれても大事に育ててもらえるだろう)
そう考えながら、弥勒はため息をついた。
何もかも、虚しかった。
妖怪奈落を倒すことは、祖父の代から課せられた使命だった。
そして、自分が果たすことのできなかった場合、その使命を託すために子供を作ることも。
女は嫌いじゃなかった。いや、どちらかと言えば好きだ。かなり。うん。
だが、徹底的に女を愛し抜くことができない。
危険な妖怪退治。限られている寿命。そして、風穴の呪いを背負って生まれてくる子供……。
どれ一つとっても、女を本気で愛しているならば、その女を自分に近づけるわけにはいかなかった。
そうでないと、その女も自分の過酷な運命に巻き込んでしまう――そう、父を愛し、早死にした母のように。
それでも、弥勒は機会さえあれば女を抱いた。女を抱いていれば、自分の右手の風穴を、少しの間は忘れていられた。
奈落の呪いにより穿たれた、禍々しい風穴。
父が風穴に呑まれたのを見て以来、弥勒は右手の数珠をはずすことができなかった。
使い方によっては、大層役に立つことは知っていた。実際父は、何度もその風穴に妖怪を吸い込み、困っている人たちを助けていた。
それがわかっていても、弥勒はどうしても風穴を使えなかった。
自分もいつかは、その光のない暗闇に引きずり込まれる運命であるという恐怖と絶望は、自分でもどうしようもなかった。
昼下がり、弥勒が集落の中を歩いていると、一軒の家から大きな怒鳴り声が響いた。
「この畜生が! タヌキ汁にして喰ってくれるわ!」
同時に、小狸が家の中から走り出てきて弥勒の足にぶつかった。
小狸は黒目がちの目で、上目使いに弥勒を見上げ、きゅ〜んと鳴いた。女子供なら情けをかけずにいられないような、いじらしい姿だった。
「このやろう、待ちやがれ!」
家の中からすりこぎ棒が飛んできて、小狸の頭に命中した。目を回した小狸の姿が、一瞬二重に歪んだ。
(おや?)
弥勒の不審な視線に気づいた小狸は、大きなこぶを撫でながら、また切なげに弥勒を見上げた。
しかし、額には大粒の汗が浮かんでいた。
「この狸が、どうかしたんですか?」
弥勒は、家の中から出てきた男に聞いた。
「こいつ、晩飯のおかずに用意しておいた魚を食っちまったんで……」
男は、外にいたのが法師だったので、少しひるんだようだった。
「それはお腹立ちのことでしたね。しかし、無益な殺生は仏の道に背くもの。この狸は私に預けて下さらぬか。二度と人里に下りてきて悪さをせぬよう、遠い山奥にでも捨ててきましょう」
弥勒はにっこり笑うと、狸を縄にくくりつけ、半ば引きずるようにしてその男の前を去った。
「もういいぜ。正体あらわしな」
人里離れた山麓の森の中で、弥勒がそう言ったときは、もうほとんど日は沈んでいた。
辺りは背の高い木に囲まれていて、空の様子は見えなかった。しかし宵の口からこの闇では、おそらく今夜も月は雲の陰に隠れているのだろう。
きゅ〜?、と鳴きながら、小狸は首をかしげた。
「いつまでかわいこぶってんだよ、このやろう」
弥勒は、小狸の尻を蹴り上げた。と同時に小狸は変化を解き、大きな化け狸の姿になった。
「痛いじゃないっすか〜。何するんですか、だんな〜」
「命の恩人に向かってなれなれしいんだよ、てめえは。何者だ?」
「へ、へえ、あっしは八衛門と申しやす……」
八衛門は魚を食べてしまったわけではなかった。まだ懐に隠し持っていたのだった。
弥勒はそれを知ると早速取り上げ、焚き火を熾して魚を焼いた。
「ほらよ」
弥勒は、木の枝に刺した焼き魚を一口齧ると、八衛門に渡した。
「すんません、だんな。いただきやす」
自分で盗み取った魚なのに、八衛門は恐縮しきって受け取った。
「……で、何であんな人里で、こそこそ盗みなんかしてたんだ?」
弥勒が尋ねると、八衛門は食べかけていた魚から口を離し、ふーっとため息をついた。
「あっしだって、好きで盗みなんかしてた訳じゃありませんや。ただ盗人を追いかけているうちに、
どうにも腹が減っちまって……」
「盗人?」
八衛門の話すところによると、彼の一族には代々『飛天玉』と呼ばれる宝玉が伝わっていたのだが、
それが妖怪に盗まれてしまったらしい。
「……ふーん。それで、その盗人の見当はついているのか?」
「へえ、それがどうやら、この山の主と言われている妖怪らしいと……」
八衛門がそう言ったとき、弥勒の背後から地響きが聞こえた。ただならぬ妖気も漂ってくる。
「……おまえなー」
弥勒の右頬が、ひくひくと引きつった。
「そういうことは、最初に言え!」
「どこの雑魚が入り込んだと思ったら、てめえ、あん時の狸じゃねえか」
凄まじい地響きとともに現れたのは、こわい毛が銀色に輝く、大きな猪だった。
「や、やい、あっしの飛天玉を返しやがれ!」
そう言いつつ、八衛門は徐々に弥勒の背中に隠れていった。
「……おい」
大猪は、笑っているような声をあげた。
「てめえみたいな腰抜けの雑魚妖怪に、あの玉は勿体ねえよ。妖力の源となる宝玉は、山の神とも例えられる、わしのような大妖怪にこそ相応しい」
「神が盗みなんかするかよ」
弥勒が、吐き出すように言った。大猪は、毛の下に隠れている目を細めた。
「1人では怖くて、こんな小僧に加勢を頼んだか。見下げ果てた妖怪だな」
「人を見かけで判断するもんじゃねえぜ!」
弥勒は錫杖を振り上げると、大猪の頭に思い切り振り下ろした。だが、大猪はびくともせず、軽く頭を振りながら言った。
「なんだ、蚊でも止まったのかと思ったぞ。おまえの力はこんなものか?」
大猪にあざ笑われて、弥勒は唇を噛んだ。
「今度は、こっちの番だ」
大猪の体が銀色の光に包まれた。と思った瞬間、無数の針のような猪の毛が、弥勒と八衛門めがけて飛んできた。
「だんな、危ねえ」
八衛門が弥勒を横抱きにして、木の陰に飛び込んだ。カツカツと小気味いい音をたてて、猪の毛は木の幹に刺さっていく。
「畜生……」
「だんな、だんな、あの大猪の牙に、あっしの飛天玉が」
八衛門に言われてみると、大猪が銀色に光るとき、右牙の辺りが金色に光っていた。
「あれか……」
弥勒は懐からお札を出し、口の中で印を唱えた。そして、そのお札を大猪に投げつけた。
「法力!」
大猪の右牙がバチバチと青く光り、砕け散った。
八衛門が、太った身体に似合わない素早い身のこなしで、宙に放り出された飛天玉を掴み取った。
「弥勒のだんな、逃げやしょう!」
八衛門と弥勒は、並んで走った。
「もう少し木の少ない開けた場所に出れば、空を飛んで逃げられますから」
「空を飛ぶ? 狸が?」
弥勒が不思議そうに聞いたとき、大猪が恐ろしい勢いで追いかけてきた。
「貴様ら、このわしに傷をつけて、無事に山から出られると思うなよ!」
大猪は、大きく頭を振った。すると左の牙が空を裂き、八衛門の足に突き刺さった。
「ハチッ!」
「だ、だんな……」
大猪は、ゆっくりと走るのをやめた。
「覚悟しろ」
大猪は雄叫びを上げた。その声に反応するように、山鳴りが始まった。
(地震か?)
しかし、それは地震ではなく、夥しい数の猪の足音だった。
「貴様らのような雑魚、踏み殺してくれるわ」
「ふん、てめえこそ1匹じゃ頼りなくて、仲間を呼ぶのかよ」
「減らず口を叩けるのも、今のうちだ」
闇の中、夥しい猪の群れは、背の低い潅木が蠢いているようにも見えた。
「だ、だんな」
八衛門が震えながら言った。
「だんなだけでも逃げてくだせえ。木にでも登れば、なんとか……」
「ばかやろう、怪我した狸置いて逃げたりしたら、後々夢見が悪いだろうが」
(しかし、どうする?)
猪の群れは、だんだん迫ってきていた。錫杖では防ぎようがないし、法力もこう大勢を相手じゃ限界がある。
(こんなところで死ぬのか? 狸と一緒に)
弥勒の唇の端に、苦い笑みが浮かんだ。
生まれたときから、死は右手と共にあり、常に身近な存在だと思い続けていた。
だが、迫り来る敵を――死を目前にして、やはり身の内が震えるほどの恐怖を感じる。
(まだまだ修行が足りねえ――こんなところで死んでる場合じゃねえや)
弥勒は右手の数珠をはずした。
「風穴!」
夥しい数の猪が、凄まじい勢いで風穴の中に吸い込まれていった。
弥勒は両足で踏ん張り右手を支えていたが、そのあまりの勢いの強さに、つい、よろけそうになった。ここで風穴が猪の群れから逸れたりしたら、たちまち弥勒たちは蹴散らされてしまうだろう。
弥勒の額に脂汗が浮かんだ。
不意に、弥勒の背中を誰かが支えた。
「ハチ、おまえ足が……」
「いいから! 弥勒のだんなは、その右手に集中してくだせえ!」
弥勒は頷くと、猪の群れに向き直った。猪を吸い込む風は木々をも揺らし、深い森の中に空を見せた。雲の切れ間から顔を出したばかりの月は、大猪の恐怖に歪んだ表情を照らし出した。
「馬鹿な! このわしが、こんな小僧にやられるなんて!」
末期の叫びを残し、大猪も弥勒の右手に消えた。そして、静寂―――
「おい、いつまでついて来るんだよ」
「だんな、そんなつれないことおっしゃらずに……。あっしは、どこまでもだんなについて行くって、そう決めたんですから」
昼下がり、もう少しで村に着くというところで、弥勒は足を止め、ため息をついた。そして、律儀に後ろについてくる八衛門に向き直った。
「あのなー、おまえがいると、女が引っかからねえんだよ」
「だんなは仏に仕える身なんですから、もう少し慎んだほうがよろしいんじゃ……」
弥勒は無言のまま、拳固で八衛門の頭を殴った。
「イテテ……、手も早いんだから……」
八衛門は頭をさすりながらも、逃げ出す様子はなかった。
(どーすっかなー……)
前の村でも、八衛門のおかげで子供は寄ってきたが、女はこちらに近づいてもこなかった。
弥勒は、ふと思いついて言った。
「ハチ、最初に会ったときの、あの子狸に化けてみろ」
「へ、へえ? どうして……」
「いいから! 早くしろ」
八衛門は、言われたとおり、愛らしい小狸の姿に化けた。それを片手でひょいと抱き上げると、弥勒はすたすたと村の中へ歩いていった。
「きゃ〜、かっわいい♪」
「あたしにも触らせて!」
弥勒の思惑通り、かわいい物好きの女たちが、八衛門の愛らしい姿に騙されて、弥勒の周りに集まってきた。
「この狸は、山で猟師に母親を殺されましてね。あまりに不憫な様子だったので、私が貰い受けてきたのです」
「いや〜ん、かわいそう〜」
「法師様って、優しい〜」
(よくもまあ、そんなでまかせを……)
弥勒の腕の中で、八衛門はあきれた。
そのとき、八衛門の鼻先に1匹のアブが飛んできた。八衛門は追い払おうとしたが、アブはしつこく、
八衛門の鼻に止まった。
「ハ、ハ、ハックシュン!」
くしゃみをした瞬間、八衛門の緊張が緩み、変化が解けてしまった。
「キャ〜!」
小狸が、いきなり大きな化け狸に変わったのにびっくりして、村の女たちは悲鳴を上げて逃げていった。
(……やっぱ、こいつ、使えねえ……)
八衛門の尻の下で、弥勒は深い深いため息をついた。
◆◆◆ End ◆◆◆
瑞穂:「弥勒さまの『はじめてのかざあな』でした」
弥勒:「なぜ、ハチ絡みにしたんですか。きれいなおなごを助けるとか、美しいおなごを助けるとか、かわいいおなごを助けるとかでも話を作れたでしょうに」
瑞穂:「……女絡み以外は嫌だったんですね……( ̄_ ̄)」
弥勒:「ところで、飛天玉ってなんですか?」
瑞穂:「……空を飛ぶ妖力のもとというか……深く突っ込まないでほしいんですけど……」
弥勒:「敵キャラは『○○○○姫』のパクリですか?」
瑞穂:「………………(v_v。)」
弥勒:「まだまだ未熟ですね♪」
瑞穂:「弥勒さまの意地悪!! ヽ(`Д´)ノ ウワァァァァァァン!!! 」
