Rainy Day

 朝起きたときには、既に雨模様だった。
「これでは、今日は出発できんのう」
「風邪をひいちゃうわね」
 粗末な小屋の中で、七宝とかごめはため息をついた。
 細い、針のような雨が、静かに静かに降りそそいでいる。濡れた土の匂い、草の匂いが辺りに重くたちこめている。

 ……あの日と同じ……

「どうした、?」
 窓の外をぼんやりと見ていたに、犬夜叉が不審そうに声をかけた。
 ハッと我に返ったは、みんなの視線が自分に集まっているのに気づいて、耳まで赤くなった。
「べ、別に。なんでもないわよ」
 は、勢いよく立ち上がった。
「あたし、散歩に行ってくる!」
「え、こんな雨の中に?」
「大丈夫、こんなときのために傘持ってきてるから!」
 はリュックから赤のギンガムチェックの傘を取り出すと、駆け出すように戸口から出ていった。
「ありゃあ、また道に迷うぞ」
「迷うじゃろうな」
「迷うわね」
 みんなの視線が、今度は弥勒に集中する。弥勒は、やれやれという感じで立ち上がった。
「まあ、雨に濡れて歩くのも風流というものですよね」
 そう言いながら、のんびりと戸口から出ていった。
「やれやれ、素直じゃないのう」
 七宝の言葉に、みんなもうんうんと頷いた。

 ……どうして今まで、忘れていられたんだろう。
 は、早足で歩き続けていた。でも、歩いても歩いても、雨の匂いからは逃れられない。
 ……ずっと忘れられなかった。忘れられっこないと思っていた。かごめちゃんに、戦国時代に連れてこられるまでは。
 もう、会えない。声も聞こえない。あの笑顔を見ることができない……
「きゃっ」
 道に露出している木の根に足を取られて、は思いっきり転んだ。膝小僧からは血が滲んでいる。
「いったー……」
「大丈夫か?」
 声に驚いて振り向くと、そこには肩で息をしている弥勒がいた。
「歩くのはえーよ、
 ニヤリと笑う弥勒の笑顔が、一瞬もう2度と会えない懐かしい人とダブり、の目に涙が溢れた。
「どうしたんですか? そんなにひどい怪我なのですか?」
 の涙に驚いた弥勒は、の傍らにしゃがみこんだ。
「違うの。怪我じゃなくて……」
 弥勒さまに出会えたから、あの日のことは忘れていられた。
 弥勒さまの側に、いつでもいることができたから。
 でも。
 そのとき、急に弥勒の態度が硬化した。
、私にしっかりつかまってください」
 そう言ったとたん、弥勒はをしっかりと抱きかかえ、横に転がった。
 木の上から大きな蜘蛛が襲いかかってきたのは、それと同時だった。
、下がっていなさい!」
 足を怪我したをかばって、弥勒は大蜘蛛の前に立ちはだかった。
 弥勒は風穴を開こうとしたが、一瞬早く大蜘蛛の糸が弥勒の右手を体ごと縛り付けてしまった。
「弥勒さま!!」
、逃げろ!」
 大蜘蛛は、じりじりと弥勒を自分のほうへ引き寄せていた。
(このままじゃ、弥勒さま食べられちゃう!)
 は、大蜘蛛に向かって走った。そして転がっていた傘を拾い上げると、その傘を閉じて大蜘蛛の体に突き刺した。
「キィィィィィィーッ!!」
 大蜘蛛は耳障りな声で哭き、のたうちまわった。
 その隙に、は蜘蛛の糸を引きちぎり、弥勒の体を自由にした。
「風穴!」
 弥勒は右手を大蜘蛛に向け、数珠をはずすと大蜘蛛をその風穴に吸い込んだ。
「助かりましたよ、……」
 弥勒の言葉が、途切れた。
 は泣いていた。幼い子供のように、泣きじゃくっていた。
「弥勒さまは、死なないで……」
 しゃくりあげるのをこらえながら、は続けた。
「絶対に、あたしの前から消えたりしないで……」
 弥勒は、少ししゃがむとの頬を両手ではさんだ。そして、の目を真っすぐ見つめながら言った。
「大丈夫。俺は、絶対にの前から消えたりしない」
「弥勒さま……」
 は、弥勒にしがみついて、また泣いた。
 風穴の呪いを背負っている弥勒が、この約束を守るのは困難だということは、にもわかっていた。
 でも、嘘でもよかった。優しい嘘なら……
 雨の匂いに、微かに弥勒の汗の匂いが混じった。安心できる、頼りになる匂いだった。
 優しくの頭をなでていた弥勒の手が、だんだん下に下りていった。そして……
 バッチーン、と弥勒の頬がいい音を立てた。右頬に、くっきりと手形がついている。
「あ、あたしったらごめんなさい。つい条件反射で……でも、弥勒さまも、こんな時に……」
 あたふたするを見て、弥勒はおかしそうに笑った。
「やっといつものらしくなったな。さあ、帰りましょう。みんな心配している。……っと」
「なに? 弥勒さま?」
「すまん。の傘も、さっき大蜘蛛と一緒に吸ってしまいました」
「えー! お気に入りの傘だったのに」
 でも、大嫌いな蜘蛛を刺した傘なんて、もう使えないか……
 は、さっきの蜘蛛の糸を触った感触を思い出し、鳥肌が立った。
 の頭に、弥勒の袈裟がばさりとかけられた。
「私がの傘となってさしあげますよ」
 弥勒が白い歯をきらりと輝かせながら、とっておきの笑顔で言った。
「……弥勒さま、それって寒すぎ……」
「寒いのですか?」
 弥勒は、の肩を袈裟ごと抱き寄せた。
「さあ、みんなのところに戻りますよ」
 二人はそのまま、ゆっくりと歩きはじめた。


 ◆◆◆ End ◆◆◆