共鳴
(……眠れない)
は、幾度目かの寝返りを打ち、粗末な板壁をじっと見つめていた。狭い小屋の中には、皆の静かな寝息だけが聞こえる。
ここしばらくの間、奈落の行方こそわからないものの、旅は順調に続いていた。
冥鬼も現れず、妖怪に襲われることはあっても、それらは犬夜叉たちによってすぐに退治された。
それにもかかわらず、は自分の身体の中に不穏なものを感じていた。――血が騒ぐ、とでも言ったらいいのだろうか。
はっきり自覚したのは、冥鬼の策略を逃れ荒魂を弾きかえしたときであったが、この感じは、犬夜叉一行と出逢ったときから少しずつ強まっていったような気もする。
しばらくの間、はおとなしく皆の寝息を聞いていたが、思いきって起き上がると、戸口に下がっている荒薦をそっと上げて外へ出た。
夜気は冷たく、は思わず身震いした。東の空には立待ち月が、冷たく青い光を放っている。
眠れない理由は、自分でもわかっていた。――夢を見るのが、怖いのだ。
は、霜枯れた草原の上に座り込んだ。さすがにこの季節には鳴く虫もなく、冷たく張りつめたような空気の中に、どこかの川の流れるせせらぎの音だけが静かに響いていた。
ふと、の目の前に、白くふうわりとしたものが舞い落ちてきた。は、思わず手を出してそれを掌にのせた。
(羽?)
は辺りを見回したが、こんな夜中に飛び回るような鳥はいなかった。だが、一瞬月の前を何かが横切っていった、ような気がした。
(羽……)
は、何かを思い出しかけた。それは、「あの日」の数日前のことだった。
は、山間の獣道を歩いていた。
誰にも会いたくなかった。
たぶん、今頃誰かが自分を探しているだろう。
「、この傷を癒しておくれ」
「腹が痛いんだ。、頼む」
「、おっかあが危ないんだ。頼む、!」
「子供を……お願い、」
「癒してくれ」
「俺を」
「わたしを」
「お願いだ」
「」
「!!」
は、思わず両手で耳をふさぎ、草むらの中にしゃがみこんだ。めまいがし、吐き気がこみ上げてくる。
(こんな能力いらない!)
はしゃがみこみ、無理して苦い汁を少し吐いた。吐いた、という事実で少し楽になったような気もする。
生まれる前から父はおらず、4歳のときに母に死に別れた。この能力だけが今のの生計を得る方法なのだが、それはにとっては楽なことではなかった。
ずっと昔、祖母が生きていた頃は祓い屋として人々の病も救っていた。だが、その頃の村人は、まずは薬草など試せる限りの治療法を試み、それでも癒えない病や傷だけを祖母のところへ持ち込んでいた。
だが、今は――。
村人たちは、ほんの些細な傷、3日も寝ていれば自然に治癒するような病までのもとへ持ち込んだ。それが、どんなにの魂力を費やし、彼女の身体を蝕んでいるかなどとは知らずに。知ろうともせずに。
稀代の能力を持っていた御影の孫として、その能力を自分たちのために使わせることは、村人たちにとっては陽が東から昇るのと同じくらい当たり前のことのなのだった。当たり前のことなのだから、特に感謝の気持ちもない。治療代として、幾ばくかの銭、畑で取れた作物などを渡すだけ。の能力が及ばず、病人が死に至る場合はそれすらなかった。「御影さまが生きていれば……」という溜め息と言葉だけ。
そして癒してもらう必要のないときには、のことを異能の者として敬いつつも、実態は遠慮がちに遠巻きに眺めているだけであった。
(あたしはこのまま、魂力が尽きて、この身が朽ちるまで、ここで……)
獣道の周りには木が鬱蒼と茂り、西に傾きかけたはずの陽射しはわずかにしか届かなかった。野猿の咆哮、鳥の羽ばたきなどが微かに聞こえてくる。
――……あたしは、自由になりたい……だけなのに……
は、弾かれたように立ち上がった。
(今のは、だれ?)
耳に聞こえた声ではない。だけど、突き刺さるような、魂の叫び。
(共鳴した……)
昔、まだ幼い頃は、自分の意思とは関係なく、相手の魂の声が聞こえていた。そしてそれは、にとっては辛いことが多かった。能力を持たなかった母や、父のわからない自分への侮蔑の気持ちばかり伝わってくるのだ。
成長するにつれ、は自分の望まない時は相手の魂を読むことのないよう、能力を制御する術を覚えていった。
しかし、ごく稀に勝手に魂の声が聞こえてくることもある。同じことを強く想っている相手とは、魂が共鳴してしまうのだ。
は辺りを見回した。
人間の気配はない。しかし、少し離れた草むらに、女物の着物がちらりと見えた。
は、そっと近づいていった。
そこに倒れていたのは、着物もずたずたに裂け、体中傷だらけになった妖怪だった。
彼女は、に気がつくと驚いた表情をして何かを呟き、威嚇する獣のような眼をした。しかし、傷の痛みには勝てず、苦しげに目を閉じてしまった。
破れた着物から垣間見える彼女の背には蜘蛛の形の痣があり、彼女の右手には鮮やかな扇が握られていた。
「風邪をひきますよ」
穏やかな優しい声で、ふとは我に返った。小屋から出てきた弥勒が、心配そうにを見つめていた。
「弥勒さま、大丈夫よ」
「そうですか?」
弥勒は、の隣にきて座り、空を見上げた。
「このように寒い夜のほうが、月も星も冴え冴えとして美しく見えるというのは、なんだか皮肉なものですな」
2人はしばらく無言で青い月を見ていた。やがて、がくしゃみをひとつした。
「ほら、やっぱり」
弥勒は微かに笑うと、袈裟である紫紺の布を身からはずした。そして、それでの身体をすっぽりと包んだ。
「これで大丈夫」
「でも、これじゃ弥勒さまが寒いんじゃ……」
「私は鍛えてありますからね。大丈夫……」
と、言ってるそばから弥勒もくしゃみをした。
「ほら、やっぱり」
は笑いながら、左肩にかかっていた布をはずして弥勒の肩にまわした。布はそれほど大きなものではないので、2人が包まるには、ぴったりと身を寄せなければならなかった。
「……温かいですね」
「……うん」
こみ上げてきそうになる涙を零さないために、は再び月を見上げた。
(桔梗!)
薄れかける意識の中、神楽は叫ぼうとしていた。なぜ、こんなところにいるのかと。なぜ、いつものすべてを見透かした冷たい視線ではなく、そんな不思議そうな表情で自分を見るのかと。
しかし、身体を引き裂かれるような痛みには抗えず、神楽は束の間気を失っていた。
(なぜ、こんなところに妖怪が?)
は、そっと彼女の背中に触れた。傷は酷く、放っておけば死に至るかもしれない。
の村の周りには、御影やその祖たちが代々張り巡らせた魔除けの逆茂木があった。彼女たちが能力の限りをつくして作った逆茂木の結界は、妖怪、物の怪の類いだけではなく、欲深い武士の集団や山賊からも、この村の在処を眩ましていた。戦国の世にあって、村が長く平和に暮らせていたのも、彼女たちのおかげだった。
しかし、御影が死んで十数年。の母は逆茂木の結界を作る能力もなく、に至っては結界の作り方さえ伝えられてはいなかった。逆茂木の結界が綻んできても、無理はなかった。
(さっき、共鳴したのは、この女の魂……)
は、背中の傷にそっと右手を当てた。やがて血は止まり、徐々に薄い皮が張られて傷がふさがっていく。しかし、彼女の痣は、の右手の能力では消えなかった。
の額には、微かに汗が浮かんだ。酷い傷を治すには、かなりの魂力を費やさねばならない。しかし、は神楽の背から右手を離さなかった。
背中の傷がほとんど癒えた頃、神楽は意識を取り戻した。
「てめえは!」
が自分に触れているのに気付き、神楽は跳ね起きようとした。が、すぐにまた苦しそうにうずくまった。
「待って。まだ、左腕の傷が治ってないのよ」
が伸ばした右手を払いのけようとして、神楽は背中の痛みが消えているのに気付いた。
(傷がなくなってる? この女……)
神楽は、まじまじとの顔を見た。はかまわず、神楽の左腕に自分の右手を当てている。
(桔梗、じゃねえ? この女は生きている。それにしても、こいつの能力はなんだ?)
神楽の目の前で、は彼女の怪我を癒していった。
(桔梗じゃねえ。だけど、桔梗によく似た顔の、不思議な能力を持った女……。このことを奈落が知ったら)
「あとは、小さな擦り傷がいっぱいあるけど、そのくらいなら大丈夫ね」
は、青い顔をして言った。これ以上能力を使うと、この場で深い眠りに落ちてしまいそうだった。
(この女、自分の体力と引きかえに、あたしの傷を?)
は額の汗を拭うと、近くにあった木の幹に寄りかかって崩れるようにしゃがみこみ、眼を閉じた。
神楽は立ち上がると、を見下ろして言った。
「どういうつもりだい? 妖怪を助けるなんて。後で悔やんだって知らねえよ」
は微かに目をあけた。どうしてと問われても、にも理由を説明することはできなかった。
「……ふん。まあいいさ。助けてもらった礼に、今日のところは生かしといてやるよ」
神楽は、髪から羽を取り出した。地面に投げると、それは人が乗れるほどの大きさになった。
「あたしは神楽ってんだ。てめえ、名前は?」
「……」
「そうかい。世話になったな」
神楽が羽に乗って飛び立とうとしたその時、は言った。
「神楽、いつか自由になれるといいね……」
神楽は驚いた表情で振り向いたが、すぐに飛び立っていった。
は、ぐったりと木にもたれかかったまま、藍色に近くなった空に白い羽が消えていくのを眺めていた。
少なくともそのときの神楽には、のことを奈落に話すつもりはなかった。
そのときは気づいていなかった。神無の鏡が2人の姿を映し出していたことに――。
は身体から布をはずし、弥勒に返すと、静かに立ち上がった。
「眠くなってきたから、小屋に戻るね」
「大丈夫ですか?」
気遣わしそうに弥勒が訊くのは、たびたび夜中にが夢にうなされているのを知っているからだろう。
「うん。……弥勒さまは?」
「私は、もう少しここで月見をしていますよ」
「そう。……じゃ、おやすみなさい」
は、そっと小屋に入った。出てきたときと同じように、皆の静かな寝息だけが聞こえている。
は、跪くとかたく目を瞑った。
――神さま、このひとときを、幸せと感じてしまったことを、お許しください。
幸せを願うことすら許されない身なのに……。
は右手の甲で乱暴に目を拭った。
泣いてはいけない。泣いたって、許されることじゃない。
静かに横たわると、は布団代わりの莚を頭まで引き上げた。
明日からも奈落を探して歩き回れるように、充分に眠っておかなければいけない。
たとえ、悪夢にうなされることになっても――。
ふと、手に羽を握ったままだったことに気付いた。
(あたしは、あの村からは自由になったけれど、一生かけても償いきれない枷をかけられてしまった。……神楽は、彼女の望む自由を手に入れられたのかしら)
弥勒は、両腕を頭の下にして草原に寝転がっていた。
に触れていた右腕が、まだほのかに温かい。
不意に起き上がると、弥勒は指の関節が白くなるほど、強く右手を握り締めた。
――今まで何度、こんな思いを味わったことだろう。この生命のある間に、あと何度こういう思いを味わわなければならないのだろう。
弥勒の前に、白くふわふわしたものが舞い落ちてきた。思わず伸ばした右の掌の上で、それは儚くとけて消えた。
(雪か……)
道理で冷えるはずだった。いつの間にか、月も雲に隠されている。
雪は、あとからあとから音もなく舞い降りてきた。霜枯れた草原に、粗末な小屋の屋根に、弥勒の頭や肩の上にも。
明日になれば、この雪が、薄汚れた世界を白く覆い隠してくれるだろう。
心の中にも雪が降ればいい、と弥勒は思った。
この想いを覆い隠して、この想いを凍りつかせて――。
弥勒は立ち上がり、天から舞い落ちる雪片を見上げ、立ち尽くした。
やっと神楽を書くことができましたv
神楽はわりとお気に入りキャラ。
強くたくましくひねくれた女が好みです。
素直すぎる女はつまらん。
珊瑚ちゃんはあまり素直にならないでほしい……。