顕現


 は、暗い闇の中にいた。
 音も無く、形も無く、は闇に溶けていた。不安も恐怖も無かった。ただ、少しだけ、眠い。
 やがて、光が現れた。それは玉依の姿だった。玉依は冷たい金色の瞳で、のことを見つめている。
 は、玉依と向き合った。そのことで、自分の身体が、自分の思い通りに動くことに気がついた。眠りに落ちる前、の身体はのものではなかったはずなのに。
 玉依は、その瞳と同じく冷たい硬質な口調で、前置きも無く、に告げた。
「おまえはいずれ、魂を継ぐ者と対になり、奈落と立ち向かう日がくる。それまで魂力を使い果たさぬよう、気をつけるのだな」
「魂力を使い果たす……?」
 の言葉に、玉依は嘲るような笑みを漏らした。
「まったく、破邪の血の末裔とも思えぬ。……この血を継ぐ者がおまえしか残っておらぬとは、口惜しいことよ」
「血を継ぐって、なに? あの鬼を寄せる能力は?」
「血を継ぐとは、我が血に宿る能力の使い手となること。そして、我が憑依坐になるということ。鬼を寄せたのは、おまえの魂力が弱く、心の闇を持ってしまったがため」
 玉依は溜息をついた。
「御影の代に決着がついておれば……。御影は破邪の真澄みの血の最後の輝きだった」
「真澄みの血?」
「破邪の血も、代を重ねるごとに薄くなる。御影で最後となるはずであった。おまえの母には能力はなかったであろう?」
 は頷いた。
「それが、他の能力を持つ血との新たな交わりにより、破邪の血は蘇った。……魂力のほうは、無理であったようだがな」
「他の能力を持つ血って、あたしの父親のこと? あたしの父親って、誰なの?」
「知らぬ。私は時量師(ときはかし)の神ではないからな。自分の見ておらぬ過去のことまではわからぬ。……ただ、おまえの血に非常に近しい者の気配が身近にある。能力の覚醒め(めざめ)には、その者の血の気配が(なかだち)になっておるようだな」
 近しい血……かごめのことであろうか?
「まったく……。血も、魂も同じ者が継げておれば、このような面倒はないものを」
「どうして、同じ人が継げないの?」
 の問いかけに、玉依は、唇の端だけで笑った。
「四魂の玉が生まれたためよ。あの破邪の血と魂を継いだ巫女は、最期のときに破邪の血を掌る霊力を血を継ぐ者まで飛ばすことが適わなかった。それで、霊力はあの場に最も近い場所にいた巫力のある女の魂に宿ることになってしまった」
 は、以前に四魂の玉が生まれた経緯を、珊瑚から聞いていた。巫女というのは翠子のことなのだろう。
「破邪の血には、おまえが今使っている癒しの手のほかにも能力がある。……しかし、無闇に使うな。おまえには、破邪の血を自在に操るほどの魂力はない。魂力を使い果たしてしまえば、おまえは抜け殻となって死ぬ。破邪の血も、終わる」
 突き刺すように、玉依は言った。
「よいな。しかと申し渡したぞ」
 玉依の姿が、フッと消えた。そして、辺りは再び一面の闇――。

 目を開けても、周りは闇だった。しかし、夢の中とは違って、板戸の隙間から微かに月の光が漏れていた。
 そして聞こえる、仲間たちの微かな寝息。
 は、そっと起き上がった。喉が、渇ききっている。
 目が慣れてくると、土間の片隅に水瓶と柄杓が置いてあることに気づいた。皆を起こさないように、そろそろと土間に下りる。
 柄杓を持とうとして、手がひどく震えていることに気がついた。なんとか震えを押さえて水を汲み、一息に飲み干す。
 小屋内に置かれていたにもかかわらず、水は涼やかだった。は再び柄杓に汲んで、今度はゆっくりと飲んだ。
……あたしは、生きている。
 は、腹内に流れ落ちる水を感じながら思った。
 ――抜け殻となって死ぬ。
 反射的に、夢の中の玉依の言葉が思い浮かぶ。しかし、今更惜しむような命だろうか。自分のせいで、大勢の人を死なせてしまったというのに。
 は、暗い小屋の中を見た。月の光を受けて鈍く光る錫杖と、その傍らに眠る人影に目がとまる。
 の目に、涙が溢れた。まるで、今飲んだばかりの水が目から溢れ出るように。
 ……どうして、破邪の血など継いでしまったのだろう。望んでもいないのに。
 誰も起こさぬよう、はそっと自分の(とこ)へ戻った。錫杖の傍らに眠る人影が、思わし気に自分を見つめていることには、気づかぬままだった。

朝。大気は冷たく澄み渡り、よく晴れる一日を予感させた。
、もう大丈夫なのか?」
 早々に床を上げ、珊瑚と一緒に朝食の支度をしようとしているに、七宝が心配そうに声をかけた。
「うん、もう大丈夫。いっぱい眠ったから、すっきりしちゃった」
 そう言って、はにっこりと笑った。
 小屋の外に出て、村に流れる小川のほとりで、村人にもらった大根を洗った。最初の殺気だった雰囲気とは違い、村人たちは皆親切だった。冥鬼を倒したからかもしれないし、弥勒が例の調子で上手く村人たちを言いくるめたのかもしれない。
 傍らに立つ人の気配を感じて顔を上げると、犬夜叉だった。
「どうしたの?」
 犬夜叉が一人で自分のそばにくるのは珍しいと、は思った。最も、今まであまりそばにこなかった理由はわかっていた。――似ているからだ。桔梗と、自分が。
 玉依が桔梗に話していたときの場面を、は夢の中で見ていた。いや、夢ではなかったのかもしれない。玉依がの身体を憑依坐として使っている間、の魂は玉依と同化していた。その余韻が、玉依と桔梗の会話の間も残っていたのかもしれない。の目は、玉依と同じ目線で桔梗の表情をとらえていた。「あるべきところへ還れ」と言われたときの、桔梗のあの表情を。
「――桔梗のことなんだが……」
 犬夜叉は、の視線を避けていた。まるで、後ろめたいことでもあるみたいに。
「桔梗は、魂を継ぐ者……だった」
 は、ぽつりぽつりと、夢の中で玉依に告げられたことを、犬夜叉に語った。
「五十年前、あたしの祖母の御影と対になり、玉依を召喚して邪気の塊、奈落を倒すはずだった……」
 だが、桔梗は死んだ。奈落は倒せなかった。御影は血を残し、が生まれた。そして……。
 ある気持ちが、の心に閃いた。それは、ほとんど恨みと言ってもいいものかもしれない。閃くと同時に、の口からは犬夜叉を詰る言葉が出ていた。
「どうして、あのとき桔梗を信じてあげなかったの? あのとき、お互いをもっと信じあえていれば……」
 奈落を倒すことができていただろう。桔梗は霊力を失い、御影は翠子のように、その身を滅ぼしていただろう。――そして、が生まれることはなかっただろう。鬼を寄せ、人を死なせることもなかっただろう。
「……すまねえ」
 ぽつりと、犬夜叉が言った。後悔の気持ちが、その言葉に、表情に、滲み出ている。
 こんな、叱られた子犬のような目をした犬夜叉を、これ以上責めることはできなかった。
 は、洗い終わった大根を持って立ち上がった。
 犬夜叉を責めてもどうにもならないことぐらい、わかっていた。誰かを責めることで罪の意識から逃れようとする、自身の心根の卑しさに気づいて、はあらためて傷ついていた。

 沈んだな気持ちで集落を歩いていたは、柿の木の下にいる男女に目をとめた。
「最近、なにやら背中が苦しくて……。食も進まず、息をするのも億劫な感じがします」
「それはいけませんな。幸い、私は病によく効く祈祷を知っております。今夜おうかがいして、あなたのために祈らせていただきましょう」
 右手で顔色の悪い若い女の手を握り、左手をそろそろと女の尻にまわそうとしている弥勒の姿に、の張りつめていた気持ちはゆるんだ。
(弥勒さまってば、また……)
 奈落を倒せないことによって、一番死に近い場所にいるのは弥勒のはずだった。それなのに、彼には焦りや不安、恐怖心が無い。
 いや、人間である以上、それらの気持ちが無いわけはないのだ。だけど、弥勒はそういう負の感情を隠して、なお、他人を思い遣る強靭な精神力を持っている。――感情に任せて、他人を責めてしまう自分とは違うのだ。
 の視線に気づいた弥勒は、慌てて左手を引っ込めて、苦笑いを浮かべた。
 じろじろと見ていた自分の無礼さに気づいて、も無理やり口元に笑みを貼りつけ、その場を立ち去ろうとした。しかし、何気なく目を向けた女の背を見て、は棒立ちになってしまった。
 女の背には、鬼がいた。
、どうかしたのですか?」
 弥勒は、不思議そうに訊いた。
(弥勒さまには、見えていないの?)
 は、女の背後に歩み寄った。鬼は赤ん坊ぐらいの大きさで、醜い姿をしていた。気持ちよさそうに女の背に寄り付き、ときどき女の体から白い光を引き出してはむしゃむしゃと喰らっていた。 
(魂の緒を食べている。このままでは、この女の人は死んでしまう!)
 は、躊躇わずに右手を出した。の右手にさすられた鬼は、苦しげに一鳴きすると、黒い霧となって消えてしまった。そして、の右手からは白い光が女の身体に流れこんでいった。
「治ったわ! 息苦しさが消えました!」
 女は嬉しそうに叫ぶと、弥勒とに頭を下げ、自分の家へと駆け出していった。
「……癒しの右手には、敵いませんな。せっかく、いい機会だったのに」
 少し拗ねたように、弥勒が言った。その弥勒の右腕を見て、はぎょっとした。
 弥勒の右の二の腕のあたりに、鬼とまでは化していないが、百足のように禍々しい形の禍霊が寄り付いている。
 は慌てて右手を伸ばし、禍霊を浄化した。
「どうして怪我をしていることがわかったのです? たいした怪我じゃないから、の能力を借りるまでもないと思っていたのですが」
 弥勒は右腕を回しながら、不思議そうに訊いた。は、苦笑いした。今までは自分も知らなかったが、「癒しの右手」はこうやって、鬼や禍霊を浄化し、自らの気をおくることで、相手の病気や怪我を癒していたのだ。
 今まで見えなかったものが、見えるようになった。これも、破邪の血の能力の顕れなのだろう。
 右手を見ながらぼんやりしているに、弥勒が声をかけようとしたとき、バタバタと誰かが走ってくる足音が聞こえた。
「よかった、法師さま。まだそこにいたのね」
 それは、先ほどの若い女だった。血色の良くなった顔を輝かせて、弥勒の元へ近づいてくる。
「おや。まだ何かお困りのことでも?」
 諦めかけていた機会が、向こうからやってきたので、弥勒は思わず相好を崩した。
「そうなの。おばーちゃーん、こちらの法師さまよ!」
 女が声を張り上げると、杖をついた老婆がよろよろと歩いてきた。――しかも、老婆は一人ではなかった。おそらく集落中の老婆が集まってきたのだろう。たちまち弥勒とは、老婆の群れに取り囲まれた。
「おやおや、こちらが病気を治してくれる、ありがたい法師さまで?」
「私は腰が痛いんだけど、治してもらえるかのう?」
「私は膝が……」
「私は、どうも目が霞んできて……」
 老婆たちは口々に体の不調を訴えながら、じりじりと弥勒に迫っていった。老婆たちは、ごく普通の村娘の姿であるよりも、弥勒のほうが間違いなく病を治療してくれる法師だと信じ込んでいるらしい。
「……
 弥勒は笑顔を引きつらせながら、救いを求めるようにを見た。
 は、群れ集まっている老婆をざっと眺めた。老婆たちに寄り付いているのは、どれも小さな禍霊ばかりで、命に関わりそうな鬼はいない。
「……じゃ、弥勒さま、祈祷頑張ってね。あたしはご飯の支度してくるから」
 そう言って大根を振りながら、はさっさと歩き出した。
〜、それはないでしょう!」
 老婆の群れの中から弥勒の情けなさそうな呟きが聞こえたが、それはすぐに老婆たちの声にかき消されてしまった。
 
 朝の予感通り、昼近くなっても空はよく晴れていた。
 は小川のほとりの陽だまりの中に座っていた。身体はすっかり回復していた。弥勒の祈祷さえ終われば、すぐにでも楓の村へと出発できるだろう。――だが、その祈祷がけっこう長引きそうなので、珊瑚と七宝は村の周囲の薬草を集めに行っていた。犬夜叉は何をしているのか、のそばには来ようとしなかった。
 かすかに枯れ草を踏む音がして、振り向くと、疲れ切った表情の弥勒が立っていた。
「弥勒さま、お疲れ様。もう全員のご祈祷は終わったの?」
「……のおかげで、ひどく疲れましたよ」
 恨みがましく言うと、弥勒はの背後にしゃがみこみ、肩に手を回すと首筋に自分の額を当てた。
「……今度は、が私を癒してください」
「え?」
 思いがけない弥勒の言葉と行動に、はどきりとした。弥勒の言葉の意味がよくわからないながらも、「癒しの右手」を使うために体の向きを変えようとしたが、肩に回された力強い腕が、それを拒んだ。
「私を癒すのに、その能力はいりませんよ。しばらく、このままで……」
 弥勒の触れている肩が、首筋が、温かかった。陽だまりの中にいるよりも強く、優しく、身体の中から能力が湧き上がってくるような気がする。
(あたしのほうが、弥勒さまに癒されているのかもしれないな……)
 は、そっと数珠の巻かれた弥勒の右手に触れた。破邪の血の能力で、この風穴を消せればいいのに。――しかし、この呪いの風穴は奈落を倒すことでしか消すことができないのだ。
(奈落を倒したい! 破邪の血の宿命とか、あたしの運命を弄ばれた復讐とかではなく、弥勒さまの命を救うために)
 二人は、しばらくそのままじっとしていた。やがて、弥勒がぼそりと言った。
の胸は、早鐘のようですね」
 が気づくと、弥勒の手はいつの間にか着物の袷の間に入りこんでいた。
「!」
 顔を真っ赤にしたが立ち上がると、弥勒はあっさりと肩に回していた腕をはずした。
「さあ、充分癒されたことですし、そろそろ楓さまの村へ出発いたしましょうか」
 涼しい顔をして歩き出す弥勒に、は赤い顔をしたまま、無言で従った。
 ――あの、温かい腕にいつまでも抱かれていたいと思ってしまったことなど、弥勒にも、自分自身にも決して認めたくはなかった。








久々の更新。(-"-;A ...アセアセ
前半部分と後半部分を書くのに
かなり間が開いてしまったので、
なんか微妙にヒロインちゃんのキャラ
変わってしまっているかも……。
申し訳ないです。