彼女のことなど
――え? 俺の話、聞いてくれるの? マジで?
* * *
なんかさあ、自分の周りだけ真っ暗闇のような気がすることって、ない? どんよりと黒く重たい闇の中で、たった一人で立ちすくんでいるような、そんな心細くて、ちょっといらつく感じ。
そりゃあ、ニュースとかワイドショーとか見てたら、不景気とか戦争とか新しい病気とか、暗い話には事欠かないけどさ。
そんな、広い世間の話じゃなくてさ、ホント自分の周りだけのことなんだけど。
例えば、っていうか……俺の友達のことなんだけどさ。
俺、親友二人いるんだよね。もう小学校からの腐れ縁で、俺と同じで顔も頭もイマイチ、って言ったらあいつら怒るかな。とにかく、気はいい奴らなんだよ。
そのうちの一人、佐々木は夏休み明けに隣のクラスに彼女ができててさ。今までなにをするんでも男三人でつるんでたのに、今じゃ彼女が優先で。男の友情なんて、所詮そんなもんさね。
特別美人でもないんだよ。どこにでもいる、フツーの女の子。性格がかわいいのは認めるけどさ。どういうきっかけでつきあいだしたのか、いっくら聞いても、佐々木のやつ、教えてくれねーでやんの。
で、もう一人の親友の山口は、これは全然女っ気はないんだけど、最近なにを考えたのか、宮大工になるって言い出して。じいちゃんの友達に宮大工さんがいるとかで、その人の仕事振り見て感動しちゃったんだって。
中学卒業したら、すぐにでも弟子入りしたいって言ってたんだけど、さすがに親に反対されて、それならってんで建築科のある高校に入るんだって、今から猛勉強始めてる。
ちょっと前までは「公務員になれたらサイコー」とか、「なんもなかったらフリーターでいいや」とか言ってた奴なのにさ。
それにひきかえ、俺ときたら愛もなければ夢もない。やっぱ、これって真っ暗闇って感じしない?
ところで、「暗」という漢字と「闇」という漢字には、どうして「音」っていう字が含まれているんだろうね?
俺、音楽はもちろん、川の流れる音とか、雨の降る音とかって好きだから、マイナスイメージの強い「暗」と「闇」に「音」が含まれているのが解せないんだよね。
で、なんの話してたんだっけ?
ああ、そうそう。親友二人に置いてけぼり食って暗闇の中一人きりみたいな気分でいる、って話ね。
そんな真っ暗闇だと思っているときに、あいつに出会ったのさね。
いや、出会ったってのは正確じゃないんだけど。幼なじみだから。
話変わるけどさ、小学生の頃って、頭が良くて、そこそこ運動神経も良くて、でもって、でしゃばりなくらいの元気のある女の子が人気あったりしなかった? 俺の周りだけだったのかもしれないけど。
でもさ、中学生ぐらいになって色気づいてくると、自然とその手の女は敬遠されて、顔やスタイルのいい女にばかり目がいくようになっちまうの。
あいつがちょうど後者のタイプの、顔とスタイルだけの女でさ。
あいつって言ってもわからないか。名前は映穂っていうんだけど。もしかして、知ってるかな?
映穂は、俺のおふくろの親友の娘でさ。小さい頃は親に連れられて、お互いの家を行ったり来たりしていたわけさね。
けど、映穂って、ガキの頃からいかにも女の子って感じの奴で。元気なオスガキとしては、一緒に遊んでも面白くないんだよね。お人形遊びとか、ままごととかさ。
ちょっと戦隊ごっことか虫取りとかしようとすると、びーびー泣くんだよ、あいつ。でもって、俺はおふくろに怒られるし。冗談じゃねえっての。そんなことで怒られるもんだから、ますますあいつと遊ぶのが面白くなくなるんだよ。
で、俺はだんだん映穂の家には行かなくなって、映穂も俺んちには来なくなって。まあ、それっきり。小学校ではクラスが一緒だったこともあったけど、あの頃はあんまり目立つタイプじゃなかったから、親しく口利いたこともなかったし。
ところが、映穂の奴、中学入ってから変わったね。
なんだか急にきれいになってきて、学年一の美少女とか言われるようになって。相変わらず頭は悪くて、運動神経も鈍かったけど、そんなこと気にする男なんていないさね。みんなあいつの長い睫毛と、大きな胸しか見てないんだから。
おまけに、高校生とつきあっているとかいう噂まであったりして。俺ら同級生なんて、ガキっぽくて相手にならんて感じ。
でも、俺のクラスは、映穂のクラスとは校舎が違ってるから、そう顔を会わせる機会もなかったし。なにせガキの頃のつまんねー女ってイメージが強かったから、たいして興味もなかったんだよね。
それがさ、ある日、土曜の午後だったんだけど、映穂のおふくろがうちに遊びに来たんだ。まあ、おふくろ同士は相変わらず親友だったから、遊びにくること自体は珍しくもないんだけどさ。なぜかその日は映穂もついてきたんだ。
「あら、映穂ちゃん。うちにくるのは久しぶりねー。さ、あがって」
って、おふくろは映穂の家に遊びに行ったりして見慣れてるから呑気なもんだけど、俺は久々に映穂を間近に見て、正直ぶっ飛んだね。
ガキの頃はぽっちゃりしたイメージだったのに、いつの間にか出るべきところは立派に出てて、引っこむべきところはキリリと引き締まっている。ミニスカートから出ている脚はすらりと長いし。長い髪はきれいな茶色で、あれはたぶん染めてるんだろうな。
確か、去年廊下ですれ違ったときは、まだまだガキの頃の雰囲気が残ってたのに。女って化けるよな。
で、居間で映穂のお土産のチーズケーキを食いながら向かい合ってお茶したんだけど、ミニスカートからのぞく映穂の膝とその奥が気になって、お茶どころじゃねえんだよな。
映穂のおふくろも、なぜかここぞとばかりに社交辞令を発揮して俺を褒めちぎるし。それをニコニコしながら聞いている映穂の視線を感じると、尻の辺りがこそばゆいったらありゃしねえ。
さっさとチーズケーキを流し込んで、自分の部屋に逃げ込もうとしたんだけど、映穂のやつ、ついてくるんだよ。
「久しぶりに、浩太くんのお部屋見てみたいな」とか言って。
おふくろたちも呑気なもんだから、「仲良くするのよー」とか言ってるし。
もう少し年頃の息子に対して警戒心ってやつを持ってくれ、ってんだよな。……まあ、いきなり押し倒したりする勇気もねえんだけどさ。
「さっきのケーキ、美味しくなかった? あたしが作ったんだけど」
ベッドの端に軽く腰掛けて、自然に足を組んでいる映穂を見て、高校生とつきあってる噂は本当だったと思ったね。それぐらい自然に馴染んでいるんだ。男の部屋にいる映穂は。
「いや。美味かったよ」
「よかったあ。最近作った中では、一番の自信作なのよ」
俺は、部屋で女の子と二人きりなんてシチュエーションにはまったく免疫がなくて、なにをどうしたらいいものかもわからず、とりあえずCDでもかけようと、手近にあった一枚を手にとった。
「それ、誰のCD?」
「『ゆず』だけど……」
「あたしも、『ゆず』好きなのー。今度MD持ってくるから、ダビングして」
それがきっかけで、俺たちの会話ははずみはじめたね。
話してみると、俺たちは好きな音楽が一緒で、好きなマンガが一緒で、冬期講習に通う塾も一緒だった。
そして、彼女のおふくろが帰るからと呼びにくるまで、時間はあっという間に過ぎてしまったわけで。
あとでおふくろに冷やかされたよ。
「映穂ちゃんが生まれたとき、『うちの浩太と結婚してくれれば、あたしたち親戚ね』って、映穂ちゃんのお母さんと話してたのよね。なのに、映穂ちゃんはどんどん可愛くなるってのに、あんたはいつまでたっても……でしょ。でも、今日の映穂ちゃん見たら、まんざらでもないって感じよね。頼むから、あたしたちの十四年来の夢を壊さないでよ」
まったく、勝手な夢を押し付けるんじゃねえっての。
それに、おふくろに言われるまでもなかったんだよ。その日以来、映穂は俺の心の大部分を占めるようになってしまったんだから。
真っ暗闇だと思っていた世の中に、映穂という一条の光が射し始めたと、そのときの俺は思ったのさね。
* * *
ヘッブシッッ!
先生ー、寒いよ。暖房ちゃんと入ってる? 保健室がこんなに寒くっちゃ、具合の悪い人が余計に病気になっちゃうっしょ。
……そりゃあ、俺は身体は元気だけどさ。俺の他にも病人が一人いるんだからさー。
え? なに言ってんの、先生。違うって。「まだ」じゃなくて、「もう」だよ。「もう十月」だよ。もう十月なんだから、寒いに決まってんじゃん。先週だって、初雪降ったっしょ。北海道の寒さ、なめたらいかんよ。
違うって、先生。北海道人は寒さに弱いの。これ定説。高気密性住宅で、ちょっとでも寒くなったら灯油ストーブがんがん焚いてるんだから。電気ストーブやコタツだけで冬を過ごせるなんて、信じらんないね。
先生、内地の出身でしょ? どこ?
……宮崎? 九州の? ……いいすっね、暖かそうなところで。俺も、どっか暖かいところで暮らしてえ。
ああ、悪い悪い。どこまで話したっけ?
* * *
まあ、「一条の光」なんて大層なこと言ったって、単なる幼なじみさね。
それでも俺は、CDやマンガを貸し借りしたりするだけの淡い友達づきあいでも、十分満足だった。
そりゃあ、夜中に映穂の髪の甘い匂いなんか思い出したりしちゃって、悶々と眠れぬ夜を過ごしたりしたことも、一度や二度はあったけど。
廊下で映穂とすれ違うとき、一言二言会話を交わすのは、ちょっとした優越感だったよ。
でもさ、クラスの男どもには少しは羨ましがられたりもしたけれど、本気で妬んでいる奴はいなかったね。
俺みたいな取柄なしからすれば、映穂は「高嶺の花」っていってもいい存在だったから。
いや、実は妬まれてボコられたりしたらどうしよう、ってな心配も密かにしてたんだけど。無事とわかったら、それはそれで面白くなかったのも事実。
それに、なにより映穂には「高校生のオトコ」がいたから。誰も、俺なんざ相手に、つまらん嫉妬なんかしたりせんのだ。
そう、その高校生のオトコ。
あの日以来、わりと度々うちに来るようになったもんだからさ。
「彼氏とデートしたりせんの?」
って、さり気なーく、本当にさり気なーく訊いたわけ。そしたら、
「たけちゃん、もうじき受験だから。今、追い込みで大変なのよ」
って、あっさり噂が本当だってこと、認めちまいやがんの。しかも、もうじき受験ってことは、今高三で、来年は(順調にいけば)大学生……。
なんかもう、逆立ちしたって敵いっこねーベさ。
で、俺は、たけちゃんが受験追い込み期間中の暇つぶし、ってわけだったのさね。別にいんだけど。
いや、それでも本当にいいって思ってたんだよ。暇つぶしの相手に俺を選んでくれてうれしいって。……俺って、バカだよなあ。
でもさ、そんな男の純情を一気にぶっ飛ばしてくれたんだよ。映穂って女は。
先週、うちに来てってさー。帰るころには暗くなってたから、俺送っていったんだよ。彼女の家まで。
彼女の家は住宅街にあってさ、同じような家の並ぶ薄暗い路地を、俺たちは他愛もない話をしながら歩いていたんだ。
空気は冷たくて、曇っていたから月も星も見えない夜だったけど、俺は彼女と並んで歩くことに浮かれまくっていたよ。このままずっと一緒に歩いていたい、この道がずっと続けばいい、なんて。でも、歩いていれば彼女の家に着くんだよな。当たり前の話。
そしたらさ、いやがんの。背の高い高校生。映穂の家の前に。
「そのガキが、噂の新しいオトコかよ」
高校生は、低い声でそう言ったね。
映穂は両手で口元押さえてさ、ものすごく驚いたって顔して、あわてて高校生の所に走っていったんだけどさ。
俺、見えちゃったんだよね。真横にいたから。両手で隠した映穂の口元が、にやりと笑ってたこと。
それからしばらくの間、映穂は俺のことなんざ眼中にないって感じでさ、高校生を宥めたり、すかしたり。
やっと俺の存在を思い出してくれたかと思ったら、
「浩太くんからも言ってよ。あたしと浩太くん、単なる幼なじみだってこと」
これだもんね。映穂のやつ、「あたしたち」って言葉さえ使ってくれなかったよ。いや、まったく。
まあ、確かにその通りだったから、俺は素直に認めてやりましたよ。俺と映穂は、まったく単なる幼なじみでございます、って。
それで高校生は納得したみたいだけどさ。そしたら、映穂のやつ、今度は泣くんだよ。
「だって、たけちゃん、最近全然かまってくれないんだもん。だから、あたし、あたし……」
あとは、涙で言葉にならないってやつ。
高校生は、「俺が悪かったよ」とかなんとか言いながら、映穂を抱きしめたね。
辺りはもう真っ暗で、街灯の明かりがスポットライトのように、抱きあっている映穂と高校生の上に落ちててさ。そして、いつの間にか降り始めた、この冬初めての雪が二人の周りをヒラヒラと舞っていやがるんだ。
俺は二人にはなにも言わずに、その場を離れたよ。なにも言う必要はなかったね。完璧に二人の世界に浸ってるんだから。
俺は悔しくはあったけど、せつなかったり、悲しかったりはしなかった。高校生の胸元にうずまっている映穂の表情を想像しちゃうとね。
それにしても、女って本当に化け物だよな。俺と同じ年のくせして、もう駆け引きの術も、男を使い分ける方法も心得てるんだから。意識してやってるのか、無意識になのかは知らんけどさ。
確かに、映穂が俺を選んだのは大正解。幼なじみってのは本当だし、見るからに人畜無害な男だしさ。噂だけで本命をヤキモキさせるには十分、ってわけよ。
こうして、真っ暗闇の中の一条の光は、あっさりと消えてったわけなのさ。
能天気に語っていたおふくろの夢が破れたことにだけ、残酷な快感を覚えたよ。まあ、おふくろにとっちゃたいした夢でもなかったろうけどね。
* * *
え? 別にトラウマになんかにならねーよ。
ていうか、トラウマってもっと後からじわじわと効いてくるもんなんじゃん? まだ早いって。一週間も経ってねえんだから。
なにさ、これがトラウマになって、男に走る展開でも期待してた? たまにそういうの好きな女っているよな。
でもさ、年くえば俺だって高校生になって、たぶん大学生にだってなれるだろ? これからじゃん。女と違って、男は賞味期限が長いんだし。
ああ、悪い悪い。別に、あんたを怒らすつもりじゃなかったんだよ。すまん。
でも、俺まだ十四歳だし。また、新しい光がどこかから射してこないとも限らんだろ。それなのに、暗闇だと思い込んで、目ぇ瞑って光を見ないってのも、バカな話じゃん。もしかしたら、すぐそこまで光がきてるのに、気づいてないだけなのかもしれないし。
まあ、そんなふうに前向きに考えられるようになったのは、今こうやって話しながらなんだけどさ。気持ちの整理がついたっていうか。
さすがに凹んでたんだよ。なんたって、初失恋だし。
でも、もう大丈夫だから――廊下で映穂にばったり会っても、うろたえたりしないし。教室で、佐々木や山口の顔見ても、落ち込んだりしねえ。
あいつら、気ぃ遣ってくれちゃってるんだよね。佐々木は彼女の友達紹介しちゃるってメールよこすし、山口は頼みもしないのに授業のノートとって持ってきてくれる。
男の友情なんだから、もっとそっとしといてくれっての。……いや、本当はものすごく嬉しかったんだけどね。
ま、そういうわけだから、明日からは、もうここには来ない。まっすぐ教室行くさ。
悪かったね、つまんない話を長々とさ。
でも、あんたが聞いてくれて、なんかすっきりしたよ。ありがとう。
……ところで、あんた、昨日もここに来てたよね? 見たとこ、どっこも具合悪そうじゃないけど?
ねえ、今度はあんたの話を聞かせてよ。聞くだけなら、なんぼでも聞いちゃるからさ。