イタズラな××
「それじゃ、かごめちゃん、お願いね」
戦国時代の早朝。骨喰いの井戸の前で、はかごめに鍵、携帯電話、そして1枚の紙を託した。
鍵は、のマンションの鍵。現代に戻れないにかわって、かごめに日用品を持ってきてもらうためだ。
携帯電話は、友達へのメッセージ用。もちろん戦国時代は圏外だから、現代に持ち帰ってもらって保存してあるメールを送信してもらうのだ。
そして、最後の紙は、学校への休学届。のマンションからファックスで送ってもらうことになっている。
「……でもちゃん、本当に家族の人には何も伝えなくていいの?」
不安そうにかごめが訊いた。の言付けには、家族に当てたものは何もなかった。
「いーのいーの。昨日も言ったっしょ。あたしんちの親、仕事で海外赴任中だから。連絡も滅多にないし」
「でも……」
なおも言いよどむかごめの背中を、はかまわず押した。
「ほらほら、急がないと学校に遅刻しちゃうよ」
「うん。それじゃ……」
そう言うと、かごめは井戸の中へ消えた。
「……まーたこれで出発が遅れるじゃねえか……」
犬夜叉が小声で文句を言った。
「犬夜叉、文句を言うんじゃありませんよ。の旅支度を整える間ぐらい待ったってたいしたことはないでしょう」
「そうだよ。それにせっかく国に戻るんだから、かごめちゃんだって学校とやらに行きたいんだろうし」
弥勒と珊瑚の言葉に、犬夜叉はそっぽを向いた。
「……犬夜叉って、かごめちゃんにベタ惚れなのねえ」
「バッ……なんでそーなるんだよ!! 俺は早く奈落を倒してーだけだ!」
の言葉に、犬夜叉は真っ赤な顔をして怒鳴り返した。
「何かっこつけてんだか。バレバレじゃん」
犬夜叉の勢いに一瞬怯みながらも、は言い返した。
「まあまあ、朝から喧嘩はおよしなさい」
弥勒が、にらみ合っている2人の間に入った。
「しかしな、、こう見えても犬夜叉は二股かけておるのじゃぞ」
七宝がこっそりとに耳打ちした。しかし、その声は皆に聞こえていた。
「こらっ、七宝! てめえ何言ってやがる!」
犬夜叉の怒りの矛先は七宝に向かい、七宝はあわてて弥勒の肩に飛び乗った。
「さあさあ、ここにいても仕方がない。かごめさまが戻るまで、村で楓さまの手伝いでもしていましょう」
溜め息をつきながら、弥勒は犬夜叉と七宝をとりなした。
「……ねえ、さっき七宝ちゃんの言ってたこと、ホント?」
村へ戻る道の途中、は並んで歩いていた珊瑚にこっそりと訊いた。珊瑚は頷いた。
「へえ……人は、じゃなかった、イヌは見かけによらないっていうか。……でも、ちょっと羨ましいかも」
「どうしてさ? 二股なんて最低だよ」
「でも、二股っていうからには、相手が自分のことを想ってくれる確率は2分の1でしょ。……その他大勢でしかなくて、何十分の1、何百分の1の確率しかないっていうのよりは、すごく恵まれている気がする」
珊瑚は無言での横顔を見た。
は、昨日弥勒のことを「先生」と勘違いしていた。そのときの弥勒を見ていたの目は、恋する女のものだった。
もしかしたら、辛い恋をしているのかもしれない。
でも、それを言うならあたしはどうなんだろう。
珊瑚は、前を歩く弥勒の広い背中をちらりと見た。そして、そっと溜め息をついた。
陽が西に傾く頃、大きな荷物を持ってかごめが戻ってきた。
「ごめんね、かごめちゃん。重かったっしょ」
「大丈夫よ、これくらい。……ところで、犬夜叉……あの、話があるんだけど……」
かごめの話を聞いた犬夜叉は、顔色を変えた。
「追試だとぉ! また国に帰るってのか!」
「仕方ないじゃない! 追試受けないと留年しちゃうんだもん」
「奈落はどーすんだよ! 四魂のかけらは? おめーがいねーと探せねーだろーが!」
「……犬夜叉って、心が狭ーい」
横で聞いていたが、ぼそりと言った。
「なんだと、てめ……」
「だって、追試なんて女の子にとっては死ぬほど恥ずかしいことなのよ。かごめちゃんがそんなことになってしまったのも、元はといえば犬夜叉のためでしょ。そんなかごめちゃんに向かって、そんな文句ばっかり言うなんて!」
犬夜叉の言葉をさえぎって、はまくしたてた。
「それに、もし留年なんてことになってみなさいよ。あんたかごめちゃんの一生を、どうやって償ってあげるわけ? きっちり責任とってあげられるっての?」
(……ちゃん、大げさすぎ……)
かごめが何か言うよりも早く、顔を真っ赤にした犬夜叉が怒鳴り返した。
「わかったよ! じゃあ追試でも何でも受ければいいだろ!」
そう言い捨てると、犬夜叉は楓の家から出て行った。
「短気だねえ」
(怒らせたのは、じゃろ)
七宝はそうは思ったが、口には出せなかった。
「……あのさ、かごめちゃん。追試って、そんなに……恥ずかしいことなの?」
かごめの身を案じて、珊瑚が恐る恐る訊いた。かごめはあわてて首を振った。
「ううん、そんなことないの、ぜんっぜん!」
「そーよ。あれはでまかせ。あたしなんか、しょっちゅう受けてるよ、追試」
しれっとした顔でが言うので、一同はあきれたようにを見た。
「いい性格してますねえ」
「そう? よく言われる」
弥勒の言葉に、はにっこり笑った。
(おまえが言えた立場じゃないぞ、弥勒)
七宝はそう思ったが、またも口には出せなかった。
夜、かごめはろうそくの灯りを頼りに、参考書を読んでいた。本当は現代に帰ったほうが勉強するためにはいいのだが、帰りたくても帰れないを置いて、自分ばかりが帰るのは気が引けたのだ。
「……ねえ、戦国時代って、牛若丸とか光源氏とかのいる時代?」
は、小声で弥勒や珊瑚に問い掛けた。
「牛若丸といいますと、九郎判官義経公のことですな。彼なら今から400年ほど前の人物ですよ」
弥勒が言うと、珊瑚も頷いた。
「それに、光源氏は平安時代の物語の主人公で、実在した人物じゃないよ」
「へー、そうなの?」
は、聞いてもよくわからないといったふうに、首をかしげた。
(……どうして織田信長とかのビッグネームが出てこないかなー。あたしでもわかるのに……)
黙って聞いていたかごめは、参考書の陰で拳をにぎっていた。
(これならあたし、東雲高校は楽勝で入れるかも……)
「ま、いいや。歴史とか古文って、どーも苦手なのよねー」
そう言うとは、井戸に飛び込んだ時に持ってきていた学生鞄から眼鏡と数学のドリルとシャープペンを取り出した。
「もしも帰れたときのために、一応課題やっとくわ」
そう言って眼鏡をかけると、はすごい勢いでドリルの問題を解いていった。
かごめがちらりと覗くと、そこには細かい字でびっしりと方程式が書かれている。
「……もしかして、ちゃんて数学得意?」
「うん」
かごめの目がきらりと輝いた。
「お願い! ここの問題の解き方、教えて!」
翌朝、追試を受けに行ったかごめを見送ると、にはすることがなかった。
村を見下ろす小高い丘の上に座り、ぼんやりと頬杖をついていた。
(……先生に、会いたいな)
先生は、数学教師だった。はもともと数学は得意だったが、先生にバカにされたくない一心で、熱心に勉強していた。そのおかげで、数学だけは学年ベスト5から下に下がったことはなかった。
家族も、友達も、にはそれほど未練はなかった。心残りなのは、先生のことだけだった。
「1人でいては、危ないですよ」
そう声がして、気がつくと隣に先生が立っていた。は慌てて立ち上がったが、もちろんそれは先生ではなく、を心配してやってきた弥勒だった。
「……やだな、声までそっくりなんだから」
そう言うと、の目から涙が溢れた。堪えようとしても、堪えきれなかった。この世界には、先生がいないのだから。
弥勒は、そっとの顎に手をかけて仰向かせると、濡れている瞼に唇をよせた。
「……!」
真っ赤な顔をして、が弥勒を払いのけようとすると、弥勒は落ち着いて言った。
「そのままでは、せっかくの美しい目が腫れてしまいますよ。他意はありません。その涙を拭う布1枚持っていない無粋な男ですから、こうして……」
弥勒は、の濡れた睫毛にそっと接吻した。
「おまえの涙を拭ってあげましょう。しばし、このままで」
弥勒はそう言うと、温かく濡れた柔らかい皮膚と、舌先に微かに感じる塩の味を楽しんだ。
犬夜叉と言い争っていたときは威勢のいい女だと思ったが、こうして抱き寄せていると、震えている小鳥のようで、その壊れてしまいそうな感触さえも好ましかった。
「……さあ、もう大丈夫ですね?」
やっと弥勒が唇を離し、そう問い掛けると、は俯いたまま小さく頷き、小声でありがとうと言った。
「聞こえませんよ。人にお礼を言うときは、相手の目を見るようにと教わりませんでしたか?」
弥勒が言うと、は顔を上げた。弥勒の唇で拭われたにもかかわらず、その瞳は潤んでいたが、それは涙のせいばかりではなかった。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
弥勒は、にっこりと笑った。
「……あのさ、唇で涙を拭うってのは、この時代の風習なの?」
「は?」
「だから、その、挨拶代わりにキスをする国もあるじゃん? ここでは、拭くものがないときは、唇で涙を拭うのが習慣なのかなって……」
は赤い顔のまま、つっかえながら言った。
(……んなわけねーだろ)
キスというのが接吻のことだとは、かごめの話から弥勒も知っていた。挨拶代わりに接吻をできるのなら弥勒としてはうれしいことだが、あいにくこの国この時代にはそんな習慣はない。涙を拭うのだって、それが男の口実であることぐらい、わかりそうなものだと思うのだが。
(面白いから、そう思わせておきましょう)
「そうですよ。郷に入れば郷に従え、と言うでしょう。の涙は、いつでも私が拭ってさしあげますよ」
「ありがとう。でも、もう泣かないから」
そうきっぱり言うと、は一目散に丘を駆け下りていった。
(面白い女だな)
その後姿を見ながら、弥勒はニヤリと笑っていた。
は一気に丘を駆け下りると、楓の家の前でやっと立ちどまった。右手を木の幹にかけながら、大きく深呼吸した。
(あの男、ヤバイ……)
弥勒はあまりにも先生に似すぎていた。弥勒に優しくされると、まるで先生が傍にいてくれているような錯覚をしてしまう。
(ドキドキするな、心臓!)
は、自分の胸をたたいた。
どんなに似ていても、あの男は弥勒。先生じゃない。ドキドキする理由なんかない。
は、溜め息をついた。
ふと気づくと、洗濯物を干している珊瑚の姿が目に入った。
楓に頼まれたのだろうか。だが、濡れた洗濯物を持ったその手は止まっていた。その瞳には、光る雫があった。
(涙?)
は、珊瑚のこれまでのことは知らなかった。だから、なぜ泣いているのか見当もつかなかった。ただ、とても悲しく辛いことに耐えているようには見えた。
(えええ? ど、どうしよう……)
はポケットを探ったが、あいにくハンカチもちり紙も持っていなかった。
(……郷に入れば郷に従え、だっけ?)
さっきの弥勒の言葉を思い出し、意を決めるとは珊瑚に近づいた。
「珊瑚ちゃん」
「……あ、ちゃん、どうしたの?」
珊瑚はあわてて手の甲で涙を拭った。そして決まり悪そうに作り笑いをした。
は無言で珊瑚に近づくと、そっと彼女の顎に手をかけ、まだ乾いていない瞼に唇をよせた。
「……?!」
珊瑚が慌てて後ずさるのと、の背後の木からドサリと何か落ちる音がしたのは同時だった。
「犬夜叉?」
「て、てめー、何やってん……」
「え? 何って……」
は、真っ赤な顔をしてどもっている犬夜叉を不思議そうに見た。
「だって、こうするのがこの時代の習慣なんでしょ? 唇で涙を拭ってあげるってのが」
「………」
「え?」
は、珊瑚を見た。珊瑚は赤い顔のまま、首を横に振った。
「あ……」
は、やっと全てを悟った。
「あの、エロ坊主―――っ!!」
「弥勒、がすごい形相でおまえのことを探しておるぞ」
七宝の言葉に、弥勒は草むらの陰で溜め息をついた。
「……かるーい冗談のつもりだったんですけどねえ」
「おめーが言うと、冗談にならねえんだよ」
くだらねえ、と言わんばかりに犬夜叉はそっぽを向いた。
「とにかく、まだしばらくは隠れておったほうがいいぞ。のやつ、完全に頭に血がのぼっておる。今見つかると、どんな目にあわされるかわからん」
再び、弥勒は溜め息をついた。
「出てこーい! このエロ坊主!」
遠くから、の叫ぶ声が聞こえてくる。
「……私は法師であって、坊主じゃないんですけどねえ」
「そんなこと言ってる場合か!」
犬夜叉と七宝に同時に突っ込まれて、みたび弥勒は溜め息をついた。
「数学教師が好き」という設定は、いくえみ綾さんのマンガの影響です。(;^_^A
でも実際、昔から数学の得意な人が好きでした。
私自身は……なので、あまりヒロインちゃんが数学得意なようにみえないですね……。
タイトルは、多田かおるさんのマンガの影響です。←少女マンガ好き