花になる


「あっち! 四魂のかけらの気配がする!」
 かごめの言葉に、犬夜叉と弥勒は身構えた。珊瑚も雲母の背に乗り、空中から飛来骨に手をかけた。
 かごめの指差した方向から飛び出してきたのは、巨大なムカデだった。
「ひっ!!」
 は、思わず叫びそうになった悲鳴をなんとか飲み込んだ。
(ううっ……妖怪さんたちには大分慣れたつもりだけど、虫はやっぱり大嫌いだわっ! どうしてこんなに大きいのよう……)
 ムカデは口から紫色の液を吐いた。犬夜叉と弥勒はあわてて飛びのいたが、二人が立っていた地面はジュッと音をたて、白い煙が立ち上った。
「溶解液か。かごめ様、、危ないから下がっていなさい!」
 弥勒の言葉にも、は動けなかった。ムカデのあまりの大きさに、すっかり怖気づいてしまっていたのだ。
「飛来骨!」
 珊瑚が投げた飛来骨は、大ムカデの目に命中した。視力を失ったムカデはのた打ち回り、巨大な尾がを直撃しそうになった。
「危ない!!」
 その瞬間、弥勒は飛び出してをかばった。ムカデの尾は弥勒の背中にあたり、二人は地面に投げ出された。
「……痛……弥勒さま?」
 弥勒の返事はなかった。起き上がろうとしたの肩に、ぐったりと弥勒の重みがのしかかってくる。そっと仰向けにして草の上に寝かせてみると、弥勒の額から血が滲んでいた。
 ……タイセツナヒトガ、シンデシマウ。アタシノメノマエデ……
「いやあー−−っっ!!」
 は、自分の叫び声を聞いたような気がした。しかし、目の前が暗くなり、それきり何もわからなくなってしまった。

「ごめんね、心配かけちゃって……」
「気にしなくていいわよ。それより、弥勒さま、たいした怪我じゃなくて良かったわね」
 粗末な小屋の前、はかごめと話していた。
 あのあと、ムカデは犬夜叉の『風の傷』で粉砕された。気を失ったと弥勒は、雲母にこの小屋まで運ばれてきたのだ。
 弥勒は軽い脳震盪と額をすりむいただけだったが、大事をとって、まだ小屋の中で休んでいた。
 あの瞬間の、弥勒が死んでしまうと思ったときのことを考えると、はまだ身体が震えた。
 癒されてきていた過去の傷が、再び開いてしまったようだった。
 ……あの時と同じになるのは嫌。大切な人を失うのは、絶対に嫌!
 でも、そのためにあたしに何ができるのだろう……。
 そのことを考えると、は自分が情けなくて涙が出そうになった。
 結局昔と同じ、無力な自分を直視するしかないのだ。
(泣いてる場合じゃない! このままじゃダメなのよ、あたしは!)
 は、決然と言った。
「かごめちゃん、あたしに弓を教えて」

「いい? 真っすぐに引いて、手を離すのよ」
 かごめに教えてもらって、は五メートルほど手前の木に狙いをつけた。だが、手を離すと矢は放物線を描いて一メートルほど手前の地面にぽとりと落ちた。
「だ、大丈夫よー。あたしも最初はすっごく下手だったもん」
 がっかりするを励ましながら、かごめは次の矢を持たせた。
 気を取り直してが矢を放つと、今度は矢は木の上に向かって飛んでいった。
「危ねーな。俺を殺す気か?」
 木の上にいた犬夜叉が、矢を掴み取りながら言った。
「あら、犬夜叉そこにいたのー?」
 かごめの言葉に、犬夜叉はムッとしたようだった。
「だいたいなー、そんなひょろひょろな矢で、妖怪なんて退治できるわけないだろ。かごめのように破魔の矢でも射るならともかく。普通の人間のおまえには無理だ。練習するだけ無駄なんだよ」
「犬夜叉、おすわり!!」
 かごめの声が、森に響いた。犬夜叉は、木から垂直に落下し、地面にめり込んだ。

「犬夜叉の言うことなんて、気にすることないわよ〜」
「うん、でも……」
 は弓の練習をあきらめ、地面に座り込んだ。
「あーあ、あたしが回復魔法でも使えたら、パーティのバランスも良くなると思わない?」
「……ちゃん、RPGじゃないんだから……」
 飴を舐めながら、事の成り行きを見守っていた七宝が言った。
は、弥勒に怪我をさせたのが申し訳なくって、何かせねばと思ったんじゃろ?」
「う、うん」
(七宝ちゃん、スルドイ……)
「じゃあ、弥勒の一番喜ぶことをしてやればいいんじゃないのか?」
「一番喜ぶことって?」
「そりゃあ、子を産んでやることじゃろう」
 あっけらかんと言う七宝の言葉に、女二人は石化した。

 は、かごめと七宝を小屋へ帰した。一人で考えてみたかった。
 ……子供産むしか、ないのかな……。
 子供は嫌いじゃないけれど、それしかできないと思うのは複雑だった。
 ……弥勒さまの子供、かわいいだろうな。
 は、弥勒によく似た、少しませた口をきく男の子を想像して微笑んだ。その男の子に子守唄を歌ってあげる自分、手をつないで一緒にお散歩する自分。でも、その男の子の右手には……。
 の微笑みは、凍りついた。
 風穴。弥勒さまを奪い、子供をも奪うかもしれない、風穴。
「こんなところにいたのですか」
 弥勒の声に、はゆっくりと振り向いた。
 いつの間にか日は暮れかけていて、柔らかな橙色の光に包まれて、弥勒は立っていた。額には、現代からもってきたバンソウコウが貼ってある。
「かごめ様が、帰りが遅いと心配して……何かあったのですか?」
 弥勒は、に左手を差し出した。は、その手を掴んで立ち上がった。
 ……弥勒さまの手。ひんやりした、大きい手……。
 その手を握ったまま、は言った。
「あたし、弥勒さまの子供を産みたい……」

「……本気か?」
 少しの沈黙の後、弥勒は言った。は、無言のまま頷いた。
 弥勒はの顎に手をかけて仰向かせると、ゆっくりと唇を吸った。
 にとって永遠とも思えるような長い時間の後、ようやく弥勒の唇は離れた。
「……どうして、泣く?」
「……わか…ない」
 そう言いつつも、の目からは、また涙が溢れた。
「泣くな……」
 弥勒は、を抱きしめた。徐々に、その手に力がこもってくる。
 は、微かに震えながら、弥勒の次の動作を待った。
 だが、弥勒はそっとの身体から手を離した。
「帰りましょう。みんな心配している」
「弥勒さま……どうして……」
 弥勒はに背中を向けたまま、何も答えなかった。
「……わかった。帰る」
 は、その場から駆け出した。

 弥勒は、その場に立ち尽くしていた。
 を引き止めることも、優しい言葉をかけることさえも、できなかった。自分を抑えるだけで精一杯だった。
 背後で小枝を踏む音がした。珊瑚だった。
「……法師さまらしくもない」
「見ていたんですか……」
 弥勒は、苦笑いを浮かべた。なんとなく、珊瑚には見られたくなかった。
「産みたいって言ってるんだから、望みどおりにしてあげればいいじゃない」
 珊瑚は、怒っているような口調だった。
「それは、酷というものでしょう。今の状態では……」
「本気なんだ。ちゃんのこと」
 弥勒は、黙って微笑むだけだった。
「このまま、あきらめるつもり?」
「いや」
 間髪いれず、弥勒の答えは返ってきた。珊瑚は、そっとため息をついた。
「じゃあ、追いかけなきゃ。あのままじゃ、ちゃん、実家に帰っちゃうよ」
「……そうだな。ありがとう、珊瑚」
「まったく、法師さまが本気で女に惚れることがあるなんて、想像もつかなかったよ」
 捨て台詞のように言う珊瑚に向かって、弥勒は微笑んだ。
「……珊瑚はいつまでたっても、私のことを『法師さま』と呼ぶんだな」
「え?」
「おまえの声で私の名を呼んでもらいたいと、思っていた時もありましたよ」
 珊瑚は赤くなった。幸い、日は沈んでいたので、弥勒に気づかれることはなかった。
「何寝ぼけたこと言ってるのよ。早く行かないと、ちゃん帰っちゃうわよ」
「ああ。珊瑚も早くみんなの元に戻りなさい。きっと心配してますよ」
 そう言うと、弥勒は後も振り返らずに、その場を立ち去った。
「……法師さまの、バカ」
 後姿が見えなくなると、珊瑚はそっとつぶやいた。
 ……やっと、あきらめる決心がついてたのに。今更、あんな思わせぶりを言って。
 しかし、珊瑚は気づいていた。その思わせぶりさえの言葉さえも、既に過去形になっていた。
 珊瑚は、空を見上げた。暮れた空は藍の色が濃くなり、糸のように細い上弦の月が、宵の明星を従えて輝いていた。
 ……奈落を倒し、琥珀を取り戻したら、里に帰ろう。そして、それから――
 珊瑚の足に、温かいものが触れた。
「おいで、雲母」
 珊瑚は雲母を抱き上げ、その柔らかい毛皮に顔を埋めた。
 ……コノナミダハ、ダレニモシラレテハイケナイ……

 弥勒が血相を変えて小屋に飛び込むと、犬夜叉とかごめと七宝はぽかんとしていた。
「犬夜叉、の匂いを追ってくれ!」
? おまえら一緒にいたんじゃなかったのか?」
「一緒じゃねえんだよ! だから頼んでんじゃねえか!」
 とても頼んでるとはいえない口調で、弥勒は言った。
 きっと井戸に向かったんだろうと思い、楓の村へと続く道を追いかけたのだが、いつまでたっても追いつけなかった。……が道に迷っている可能性は、大いにありえることだった。
 そのままだと右手の数珠をはずしかねない勢いに恐れをなして、犬夜叉は外へ出て鼻を動かした。
「……まだ、それほど遠くには行ってないみたいだぞ。……ん?」
「どうした、犬夜叉?」
「……なんか、酒の匂いがする……」

 それより少し前の時間。
(あーあ、珊瑚ちゃんに雲母借りてくればよかった……)
 は、歩き疲れて立ち止まった。楓の村までどのくらい歩けばいいのか、見当もつかなかった。しかも、だんだん暗くなってきている。
 いつの間にか小さな町に来ていて、辺りの家のかまどからは、夕食の魚を焼くいい匂いがしていた。
「そこの女ぁ、変わった着物だな。俺たちと一緒に飲まねえか?」
 酒屋の軒先にたむろしていた男が、声をかけてきた。一緒にいる男たち五・六人も、のことを好奇心と下心の入り混じった目で見ている。
(……喉も渇いたし。……もう、どうでもいいか……)
 は、男たちの方に歩み寄った。

!!」
 町に着くと、弥勒は大声での名を呼んだ。こんな町で酒の匂いのするような所は、女子供にとってあまり安全な場所とはいえない筈だった。
、どこだ!?」
 弥勒の声にはじかれるように、一人の男が飛び出してきた。
「あんた、あの女の連れかい?」
 中年の小柄な男で、怯えたような表情をしていた。
を知ってるのですか?」
「知ってるも何も……」
 男は、弥勒を一軒の店の前に引っ張っていった。
 最初は薄暗くてよくわからなかったが、店の中から漏れる微かな灯りでよく見ると、軒先に男たちが五・六人倒れていた。
 その中に座り込み、徳利を傾けて酒を飲んでいるのは……
?!」
「……あら、弥勒さま。どうしてここに?」
 は、普段と変わらない様子だった。
「こ、この女、ウワバミの化身だろ!」
 男は、上ずった口調で言った。
「男たちを酔い潰して、店の酒全部飲み尽くしやがって……」
「……………………………………………………………………」
 弥勒は脱力していた。さっきまでの心配の反動で、どっと疲れが出てしまった。
 そんな弥勒を無視して、は徳利の中の最後の一滴を飲み干した。
「おかわり」
「もうねーよ!! 法師さま、早くこのウワバミを連れて行ってください」
「……わかりました」
 弥勒はをおんぶした。は、意外に素直に従った。
「そうだ、酒代は……」
 男のほうを振り向いて、弥勒が言いかけると、が口を出した。
「こいつら払ってくれるから、へーきよ。飲み比べして、負けたら全部払ってくれるって言ってたもん」
「えーえー、こいつらから取り立てますんで。だから法師さま、一刻も早くそのウワバミを……」
 男は、に心底怯えているのだった。
「ばいばーい」
 そんな男の心など知らず、はノーテンキに手を振った。

「……あたし、生まれて初めて酔っ払ってるかもしれない」
「そのようですな」
 弥勒は、無愛想に言った。
「まったく、酒屋のおやじがあんなに怯えるなんて。どういう飲み方をしてたんですか」
「……だって、飲みたかったんだもん」
 は、答えにならない答え方をして拗ねた。
 弥勒は、何も答えないまま、もと来た道を歩いていった。
「ねえ、あたし、楓おばーちゃんの村に……」
 が最後まで言い終わらないうちに、弥勒はきっぱりといった。
「おまえは、私と一緒に来るんです」
「だって、あたしこんなに役立たずで、迷惑ばかりかけるのに……」
「おまえは見ているだけで面白くて、退屈しなくて済むから、一緒にいたほうがいいんです」
「……それって、あまりうれしくない」
「じゃあ、言い方を変えましょう。――例えば、野の花は何もしなくとも、そこに咲いているだけで見る人の心を癒す。おまえもそれと同じです」
「野の、花?」
 よく意味のわかっていないは、ぼんやりと繰り返した。
「……だから! ごちゃごちゃ余計なこと考えねーで、俺の傍にいろって言ってんだよ!」
 とうとう、じれったそうに弥勒は言った。そして、拗ねた口調でつけくわえた。
「……二度は言わねーからな」
 一瞬ぽかんとした後、はくすくす笑い出した。
「何笑ってんだよ、酔っ払い」
 弥勒は、まだ拗ねていた。
「弥勒さま、なんかかわいい」
 は、なかなかくすくす笑いが止まらなかった。
(こ、この酔っ払いは〜〜〜!)
 弥勒は、あきらめて黙って歩き続けた。

「ねえ、弥勒さま」
 ようやく笑いの止まったは、笑いすぎて目に滲んだ涙をぬぐいながら言った。
「……なんですか」
「あたし、子供産まなくていいの?」
「まさか」
 弥勒はニヤリと笑った。
「おまえのような初心な娘には、順序だてていくんですよ」
「順序?」
「今宵は唇、次はうなじ……そこから先は、口では言えませんね」
 背中の上でが硬直する気配を、弥勒は密かに楽しんだ。
(このくらいの意地悪言わねーと、割にあわねーよな)
 やがて、はぐったりと弥勒にもたれかかってきた。酔いがまわっいるのと、背中で揺られているうちに睡魔が来たらしい。
 の吐息が弥勒の首筋を甘くくすぐり、予想外に大きな胸が弥勒の背中に密着している。
(……早く奈落倒して、風穴の呪いを消さねーとな)
 だが奈落との闘いの前に、弥勒にはおのれの煩悩との闘いが待っているのだった。

 そんな弥勒の気持ちも知らず、は弥勒の背中の上で心地よく眠っていた。そして、暖かい夢の中で決意していた。
 ……あたし、弥勒さまの花になるからね……

 しかし、そんなも、翌日地獄の二日酔いが待っていようとは、まだこの時は気づく由もなかったのだった。



   ◆◆◆ End ◆◆◆


瑞穂「……なんか、長くなりすぎてしまいました。しかも、また酒ネタだし」
弥勒「まったく、無駄な展開ですね。あれが精一杯ですか? せっかくのーねーむが子を産む決意をしてくれたというのに」
瑞穂「だって、簡単にやっちゃったら、つまんないじゃん」
弥勒「……かわいそーな、俺」
珊瑚「かわいそーなのは、あたしだよ。だいたい瑞穂の今までの作品じゃ、いるんだかいないんだか、よくわからない扱いされててさ。やっと出たと思っ たら、これじゃあね」
瑞穂「だ、だってぇ、珊瑚ちゃんはノーマルノベルのほうでラブラブだしさ。ドリームくらいはいいじゃん。弥勒さまは公共物、みんなのオモチャという ことで……」
弥勒「オモチャって……」
瑞穂「(無視)そ・れ・に、原作では、弥勒さまってば……」
弥勒「ネタバレはいけませんよ」
珊瑚「……ふーん、まあいいけど……( ̄_ ̄メ)」
瑞穂「いいけど、と言いつつ、珊瑚ちゃんの目、怖い……」
弥勒「おまえ、世界一怖いおなごを敵に回しましたよ」
瑞穂「ほ、ほえ〜(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル 」
珊瑚「何か言った!?」
瑞穂・弥勒「い〜え、何にも!」


犬夜叉「今回1番かわいそーなのって、俺じゃねえか。……って、誰もいねえし……」